名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

なぜ死体をそのままにしなかった

享保2年7月16日。
亥半(午後10時)前、近藤権内長屋から出火する。
長屋ばかりが残らず焼失する。
権内は泊番であった。

盆中に本町4丁目で野崎助八の娘の尻を何者かがさすが(刺刀)で突き、大分血が流れる。
この娘はとても色を好み、異名は大つと。
芝居などへ入りびたる。
化粧などで身なりを整え、驚くような美貌だった。
助八も諦めていた。
芝居などへも入婿の野崎甚五左衛門を一緒に連れて廻る。
甚五左衛門は従弟でこの女と関係があった。
大須に真男(密男)の絵馬などを掛け置く。

織田丹下足軽村田両右衛門は以前継母と関係を持っていたが、近年はなはだ嫌になっていた。
継母は借屋に住んでいた。
毎日やって来てはこのことを恨んだ。
それならば扶持を寄こせ、銭を寄こせと責め立てた。
7月12日の夜もやって来るのを恐れて仲間の小谷仲八のところへ行って泊ったが、夜が明けて帰って見てみると継母が首をくくって死んでいた。
驚いて縄を解いていると仲間がやって来て内々に権内へ知らせた。
この時丹下は留守であったので山寺権内が取り扱った。
とにかく前の通りくくっておけとのことで、若い者2人して梁へ高くくくっておいた。
検分に五十人目付がやって来て縄の跡が2筋あるのを怪しみ、その上女が高くくくった梁に煤焙があるのに女の手に煤が付いていないのを訝り、両右衛門を詰問すると、言うことが色々違ったので牢に入る。
7月2日に平岩七太宅で両奉行が立ち合い、詮議する。

今年の盆は町のあちこちで腰懸を作り、覆いをし、あるいは氈を敷いたりして踊る。
飯田町が最初と。
家中で踊るものが多い。
多くは狂言にも踊にも国姓爺を入れる。

盆中、伝馬橋のあたりで山澄風残門番の子が暴れ、町奉行足軽頭を叩いた。
そのため捕まり、牢に入る。