名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

消火活動の邪魔をしたのか、困った奴だ

宝永3年9月3日。
不意に老中、国奉行が御屋形へ出かけ、休所へ向かわれ、内密に面々支宅(度)(物事の準備)がある。
夕暮れ過ぎて退出する。
6日も同様。
大井での公事のことかと。
未1刻(午後1時過ぎ)、萱葉池の塩硝場で合せ直し(配合)した塩硝を16のから臼(木の臼)で搗いていたところ、1つの臼から火が出て他の臼に火が移り、塩硝が爆発する。
小屋は焼け、焼け残った分とから臼などがひどく爆発する。
鉄砲奉行鈴木勘太夫が小屋の入口にやって来て、もうおさまったかと言っているとまた火が出る。
臼の他にも桶に入った薬があったので、これに火が移り、太夫は外に芝生に跳ね飛ばされ、仰向けに倒れる。
何とか駕籠で帰宅する。
両足にやけどを負い、歩くことも出来なかった。
小川郷左衛門は別の小屋におり、御用の書き物をしていたので難を逃れる。
飼殺の足軽市兵衛はこの夜に死んでしまい、留右衛門は翌日死んでしまう。
町人は皆ひどく火傷を負い、その場で死ぬものもあった。
9月20日頃までに27人が死んでしまうが、3人は回復する。
療養する者1人に2分ずつ下される。
その日人足は37人出ており、薬は1臼に2貫目で16臼で32貫目あった。
他にも桶に入った薬がたくさんあった。
火事だと人が多く集まる。
音は地震のようで遠近に響き渡り、犬山の北の方でも聞こえる。
2度響き渡り、名古屋でも地震かと外へ出る者があった。
文左衛門は忙しかったので音は聞かなかったが、煙はよく見えた。
町人が1人牢に入る。
町奉行足軽に命じて水をかけていたところ、町人が悪態をついた。
叱りつけると人足は怒ってののしり、その上水桶を持って挑みかかってきた。
足軽が鳶口で殴りかかってくるのを奪おうとした、あるいは足軽をたたき返したとも。
平岩七太夫がこれを見おり、すぐに人足を縛らせた。
この人足、最初は山本九郎左衛門の足軽を勤め、強力者と。
塩硝場の定番の子が最初に戸を閉じたので褒められて金2分を下される。
残りの2人は町方から検断金を下される。