名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

これだけ見ると名君かも

正徳4年7月30日。
文左衛門は松へぎ善六からねず(杜)5尺(1尺は約30センチ)、榑を1両分16丁を買い求める。
召仕1人を遣わし、車賃は70かかる。

米が1両で4斗8升。
甲斐殿の米は4斗6升、銭1分に835文。

今月27日の状の写し。
公も昨年冬から今年春までの様子とは大分違い、年寄衆への鋒廻り(あいさつ回り?)は中々落ち着いた様子で、城での様子も昔の高林院様(徳川綱教?)のようだと言われている。
少し前、隼人正が申し上げられたことがあり、その後年寄衆を連れて御内証(奥)へ廻り、御内証の御台所まで廻り、それから表の御台所、御膳場を残らず廻り、休息をされた。
奥田の休所、守崎の御用所の立派さには年寄衆もあきれ果てた。
表の御台所の汚さにもあきれ果てた。
その後御休息は残らず壊すようにと言い渡され、直ぐに壊してしまった。
奥御座の間だけを残し、円覚公が建てられた御休息、新御殿一宇(一棟)残らず取り壊し、広い庭となった。
そこで地中を掘ったところ、古ふんどしの類がいろいろ出て来たが、あまりのことなのでこれは略す。
女中表年寄重山、その他の女中も少しいた。
これは公儀勤めに遣わされた女中で、訳あって叶わなかった者たちであった。
これも高塀で仕切り、一ヶ所に入れ置いた。

7月28日8つ時(午後2時)前から急に奥の御休息を壊すので、夕暮れに表へ出向くと云々。
奥の者たちはうろたえ、臥具などを抱えてあちこちへ逃れた。
2時(1時は約2時間)ばかりで御休所を残らず壊してしまった。
財政はかなりひっ迫し、盆前の払いは1000両のところへ5両ほどであった。
町人が50人ばかり申し合わせ、年寄衆が帰る際に左内門の中で後をつけて罵った。
織田周防宅へ来るようにと云々。
宅へ向かうと聞き届たとのことで、その後役人から町人に話をし、財政がよくなり次第間違いなく払うとのこと。
屋敷の中の長屋も荒れ果てて壁も落ち、雨が降ればひどく雨が漏る明(空)屋敷のように見えた。
表御座の間の隣でもひどく雨が漏ったが、さし板(羽目板)さえもなかった。
それでも鈴木安太の長屋は馬屋の向きがよくない、玄関もよくないと先日建て直していた。
これは役人の不正との評判になっていた。
7月19日に公の御老中が退去する際、中玄関前で町人が取り囲み訴えると。

7月26日、瑞祥院(徳川吉通正室)様旅の用務で御作事手代8人、御大工6人、町大工20人の内肝煎2人が今朝尾張を出発し、東海道を向かう。