天保3年。
1月2日夜八半時(午前3時)、法華寺町大法寺三光堂から火が出て、寺全て残らず焼失する。
どうも怪しい火事だと。
明六時(午前6時)前に鎮火し、類焼はなし。
2月上旬、石塔磨きがあちこちで行われる。
東寺町就梅院・堀川聖運寺・裏町円頓寺、その他あちこちで次々と磨き、朱の戒名だけには真紅の朱をさして特にきれいだと。
磨かれた施主には必ず凶事があると。
1月16日、三丸手廻り300人ほどが清須へ喧嘩に出かけたところ、挨拶人(仲介者)が入っておさまると。
1月11日熱田の御神事を前中納言が御透見し、15日は延期する。
23日に大々(太々)神楽を繰り上げて行い、御透見する。
2月15日から3月6日まで、栄国寺で知多郡木田観福寺十一面観音ならびに横須賀谷虫供養、阿弥陀如来を開帳する。
2月28日から4月3日まで、大日山日龍峯寺において濃州武儀郡津保谷高沢本尊の千手観音を開帳する。
3月12日から25日までの27日間、西光院において永観音禅林寺顧本尊阿弥陀ならびに霊宝を開帳し、大いに賑わう。
25日、大施餓鬼が行われる。
3月3日から4月7日まで、木ケ崎長母寺において、守山見性寺本尊恵心僧都作薬師如来を開帳する。
2月になってすぐ、駿河町油屋後家の東三昧地蔵堂尼僧のところへ吉利支丹の僧がやって来て不思議なことが起こったとの噂があるが、根もない噂である。
2月15日、丸米野町安養寺の隠居が理由もなく首をくくって死ぬ。
守綱寺の表門は先ごろ東向きとなり、白林寺筋へ建てたが、今度は裏門を住吉町行き当たりに開け、この裏門は花屋町よりかなり南に奥まっていたのでその両側に新たに借屋を建てる。
中村十蔵という役者が尾州へやって来るはずのところ、1月27日、勢州八峯坂で雷に打たれて死ぬと。
もっともぬけ道(裏道)と。
6月、この十蔵の碑が大須に建つ。
2月29日、激しいつむじ風が昼過ぎの八時(午後2時)前後にある。
この日志水解脱寺へ曲がる角での死者の隼人正殿の中間飯炊はクハシヤ(火車、死体を奪う妖怪)に掴まれると。
この日、四日市や桑名で船が破損すると。
知多郡ゼンノワ(前之輪)の藻取船の兄弟が溺死すると。
3月21日、塚田多門先生が病死し、大光院に葬る。
諱は虎、この人は名倫堂の督学(校長)で初めは僧をしており、優れた人物である。
大峯先生という。
東門徒の騒ぎの一件は昨年冬より特に大ごととなり、寺社役所だけでは済ませがたく、評定所で三奉行ならびに下役が列座の上吟味となり、関わる役人の着座の図は次の如し。
(図略)
この同行疑念方惣代の16人、騒気方惣代7人、このほか鈴木惣助とは親の材惣のことである。
美濃勘菱喜は同行惣肝煎で、最近不締(管理不行届き)があり家に引きこんでいたが、吟味が大ごととなったので出席すると。
この吟味は3月28日に初めて評定所で行われ、それ以後内寄合(町、寺社、勘定奉行の審判)がない日はしっかりと行われる。
盆前、盆後は次々と詮議が行われるが、今年1年では片が付かず、翌年に持ち越される。
それ以後のことは後に記す。
この騒気方というのは大人数で7、8割は騒気方であったが、この騒気方の材惣・嘉平次・戸之右衛門始め全員が金銀を分け合って使い込んでいるとの噂であったが、従う者たちは全員彼らの来世での極楽往生を説く弁舌に騙されていると。
疑念方は勇儀・潔白とのことで、世間では騒気方の連中を憎んでいると評判ばかりである。
評定所吟味において最初のうちは嘉平次・戸之右衛門が出入りすると人が群れ集まって悪口を言い、その上石などを投げると。
あまりの騒がしさのため町触が次のように出る。
東本願寺門徒の騒気の一件で、評定所での吟味のために呼び出された者たちが帰る際、途中で大勢が見物に集まり、中には面と向かって悪口など言う者もあると聞き及んでいるので、往来で騒ぐことは不束であるので今後このような騒ぎがないようきつく心得るように。
もし理不尽なことがあり、役方が見つければ取り締まり、厳しく問いただす。
この一件は寺社役所だけでは手に終えず、評定所で行うこととなり、他領の者を呼び出す際も御家決断所がどこの誰を差し出してほしいことを領主とかけあうととのことである。
この一件を最初から細かく、詳しく書いた三猿物語という写本が5、6篇まで次々出されたが、本屋へは差し止めとなる。
この三猿物語の書き抜きを少々次に記す。
(以下略)
(3-p71~p74)