天保2年。
12月1日、宰相斉温卿が中納言に任ぜられ、このため京都御使は津田縫殿、頭殿御添御使番は広瀬新十郎、奉書御使は蜷川善十郎が勤める。
今年天保二年辛卯6月2日、織田信長公250年の遠忌のため総見寺で法会が行われる。
導師は現住卓洲大和尚。
当国紫衣大和尚定光寺・海福寺・泰雲寺・妙興寺・白林寺の5ケ寺、他に当国ならびに隣国の黒衣の長老124人、平僧住持64人、日本中50余国の雲水僧500人余りが集まり、4月15日より7月15日まで結制(僧が一か所に集まって修行する)の儀を行う。
公家から米穀・金銭の米100石と金100両を賜って様々な費用に充て、豪農富商からも金や米を信施(布施)することがおびただしく、ここかしこから和尚を始め数百の僧を招き斎飯を供する。
ただし詳しいことは他日の記録に附す。
卓洲和尚の祭文は次に載せる。
(祭文略)
立塔の銘を次に載せる。
撰者は、遠州沼津蓮光寺隠居妙喜和尚。
この人は卓洲和尚に就いて大悟(悟りをひらく)し、知識(智識、指導)となる。
(銘略)
卓洲和尚は毎日虚堂録を講釈する。
僧徒のみならず聴聞をする俗人は数百人に及ぶ。
当6月25日夜、1晩中明るくて薄月夜のよう。
水野正信も外出するが、3、4間(1間は約100メートル)の間にいる人の顔を区別できるほど。
時計を好む人の話ではこの夜はどうしたことか寅の2刻(午前3時半前)で夜になると。
護花関(堀田恒山)の随筆の中の痺れのまじないは細川幽斎の伝えたもので、大田南畝からの来た書付のままに次に載せる。
(朱書、朱枠)「この囲みの中は不用」
(3-p66~p67)