文政7年。
右は問答の書である。(これは写真版が名古屋叢書四編に掲載されていますが訳は略します。ただ単に読めないだけですが。)
左に記すは両僧在京中にこの地へ申し来る日潤の書簡。
漸く秋の気配が増し、涼しくなったこの頃、ゆったりと静かなることを喜び申し上げます。
この地が無事で、つつがなく静かであることでしょう。
数度の親切な手紙を喜んでおります。
手紙を書くこともなまけがちで失礼しました。
帰りました僧侶の国元での安否承知しました。
本山へ2度出かけた際の趣の書付をご覧入れます。
この度の役所のお言葉、ありがたく思っております。
本山は大いに迷惑とのこと塔中(本山の附属寺院)より承っております。
なお、全てのことを細かく申し上げます。
不具。
壬8月朔日10日 日潤印。
大光寺様 妙蓮寺様 妙善寺様 休玄寺様 人々御中。
8月30日、本山への呼び出しの手紙が届きました。
またその後、延期と申してきたので出かけませんでした。
当月4日、呼び出し状が届いたので直ぐに本山に出かけました。
この日は学頭の真如院が来るとのことで、すぐにやって来ました。
法華寺、本住寺も一緒に出かけ、役僧、真如院ならびに瑞雲院、堅利院の3人、拙僧、本用院が同席しました。
裁判の主は山主から頼まれたとのことで神槙本寺隠居の日映師でした。
この人は中山旦林で13年前に能化(長老)となり、運師と年も近く、弁舌にも優れており、無縁(公正)な人であるとのことです。
裁判のためか様々な長口上、法問があり、少々難しいものもありました。
拙僧は言われた法問に即答しました。
また山主の本心を聞きました。
内外共にいろいろな心を痛めるようなことがたくさんあるので、和融(和議)してくれるようにとの考えを重ね重ね拙僧に勧められました。
拙僧が答えは、お考えはもっともである。
私も隠居の身で年を取り、強情になったと考えておられるのか。
そうではなく、国元の同宗の者たちが惑わされ、騒ぐことがなはだしく、寺院の旦那(檀家)も難渋し、終には御奉行所に苦労をかけてしまいました。
春からは本山に行き、裁判が行われており、決着した際は拙僧どもが請状に加判するつもりです。
この趣は当山から尾州表役寺中まで話をしてあります。
この席の役寺の両師が聞いた通りこの秋に御奉行所から役寺両師に特に上京し、本山に出かけることを仰せつけられ、本山からお尋ねがあることを両寺、拙僧にも話されました。
ぜひともお願いいたします、白黒がはっきりせず、ただ和融では尾州からお尋ねに出向いたことが報われません。
この日から尊師が山主に代わられては、明らかにならないと思います。
また尊師が1、2度誠(試か)にお尋ねになる心づもりならば無用でございます。
いつまでかかっても善悪を判断されるつもりならばそれは適切なことです。
日映師が言われたのは、聞かされた考えはもっともである。
山主からの強い希望でもあり、何度も固辞したけれど逃れがたかったので、私は今日この席に出て、話し合いました。
私も年をとって何事も不行き届きであり、身分不相応なことで、世人に笑われて恥をかいてはいけないのでこの日は引き取り、今後は話し合わないつもりである。
退座の後、英鏡院へ同道して日映師から供応がありました。
閏8月4日 日潤。
閏8月7日早朝、本山にでかけました。
日映師がまたまた席に加わり、法華寺、本住寺が列座し、役僧真如院、瑞雲院、堅利院の3人、本用院と私が同席しました。
この日は一解院弟子の礼敬も同伴しました。
私は老僧ですので、聞き間違いや聞き落しがあってはいけないからです。
まず最初に本用院を呼び出して尋ねられ、その次に私でした。
山主が言うには、先だって裁きが決着して申し渡したところであるが、また尾州の役寺から申してきたので再度裁きを行うことになったと話されました。
去年尾州の役所から吟味の口書を寄こしているのでここで吟味するとのことでした。
私が話し出すと、尾州役寺から申して来たことを一通り承りたいとのことでした。
山主が言われには、何も隠すことはないと。
これはその写しだと読み上げられました。
それから去年の口書のことを本用院に尋ねられました。
法問(仏法についての問答)、難問(非難)のことを叱り、その後教戒(教え、戒めること)が3度ほどありました。
本用院は恐れ入り、今後きつく慎むよう申されたのを受け入れました。
しかしながら、静かな口調の中にも贔屓しがちなことが言外に現れておりました。
両寺から話を聞き、満足できる判断を下すべきです。
次に私を呼び出し、去年の口書について尋ねられました。
書面を逐一読み上げ、子細にわたり詰問し、日映師も往々に責めるようなことがありました。
今回はが役所よりの仰せ渡し、ならびに両寺出席していたため遠慮なく申し述べ、返答した法問は明らかでした。
恐れ入るというようなことは一言もありませんでした。
もちろんその後教戒を受けることもありませんでした。
かねて私の熟慮した上で作成した法門の書面で論破しました。
山主が言うには、それは道理の話であると。
祖書(日蓮の著作)のあらましは自分が校正し、出板(出版)したけれど、全部をわかっているわけではない。
初心の者のためになるものなので世に出したが、要約したものである。
全文を載せたものではない。
もちろん自分の考えはあらましなどではなく粗書によるものであるなどと話されました。
おかしな話であります。
私はもう話を聞くことはないと聞きました。
両寺から見聞きしたので結論は出すべきである。
尋問を一通り済ませると、山主、本用院から和談のことが申し出され、日映師も内々に山主と申し合わせていたのか、ただちに意をくみ取り、種々の勧めがありました。
日映師が言うには山主の思いには憐憫の気持ちがあり、片方に手を貸しては良くないので、和談は当然である。
本人さえ仲直りすれば、他の寺院や在家は関係ないことである。
それで自然とおさまるであろう。
私が言ったのはあなたの気持ちはもっともであるが、この度ここまで来て尋ねられたことは格段のことである。
正邪がわからなくては役所とは一体どう思うのか。
私は隠居の身でどうでもよいし、老僧でもあるのであまり強情をはっても無様である。
しかし、国元の諸寺院、檀方を治めるには正邪をはっきりさせ、賞罰がなければ難しいと話すと、法華寺が退出の後もう一度よく考えてくださいと言いました。
そしてすぐに退出いたしました。
英鏡院に立ち寄り、法華寺、本住寺、私、礼敬、英鏡院主儀俊が列座のところで法華寺が言うには何分山主はこの度のことを心配しているので、熟慮の上仲直りできるようにと考えていると。
本住寺が言うには法華寺様は在家の騒ぎはさほど支障にならないようだが、私どもは檀方から様々言われているので迷惑であると。
また、日映師が帰ってきて、和談を勧められました。
私も困りました。
法華寺が言うにはまた明日本山に出かけ、示談するべきだと。
このため8日早朝にまた本山に出かけ、8時(午後2時)過ぎまで勧持院で待っていましたが、方丈(住職)に差支えができたとのことで戻りました。
一 この度役所から尋ねられたことは本山においてはなはだ迷惑な様子で、諸本山で様々な風聞があり、九ケ条ながら十五山へも出されておりました。
一 今年の年番会は寂光寺のはずでした。この寺には住職がいないため十六の本山の一つではありますが、小寺で役僧も2人です。1人は尾州東寺町常徳寺の慈雲院で住職をする僧で寂光院の役僧です。この僧が初めから会元であるので取り計らうというのは、十六山といえども全て会元に任せるのが先例です。
一 念仏無間板本尊のことは異流にならぬように常徳寺から頼まれているので、いろいろ考えていると他の役僧から承っています。しかしながらはっきりしない返事と思われます。考えを申し遣わします。その後、本山にでかけたことを話します。乱筆にて失礼しまう。竟慎不尽。
閏8月10日 日潤。
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