名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

結局弱い者がばかを見る

文政7年。
今年、玉屋町の天王車は文字書欄干が紫□(ママ)になり、その他も色々と修復する。
近年、その他にも瑞々天王烑灯台と称して修復する。
車数も段々と増え、中々美麗になる。
巾下は12、人形も出来、幕も羅紗、或いは錦あるいは麻木綿もあり。
広井は10ばかり。
下小田井は4つ、これはまた結構なもので幕、彫物、人形。
出来町は3つ、これも細かいところまで行き届いている。
杉は1つ。
押切、馬喰町は共に2つ。
浄明寺前は1つ。
土呂(宮)町は3つ。
益屋町は1つ。
車ノ町は1つ。
これを追々修復し、彫物、人形、幕、欄干、天井などが段々美麗になる。

大久保見町仏具師錺(飾)屋佐助が番頭と2人で大坂へ出かける途中、亀山宿で盗人に殺され死んでしまう。
金子3分2朱、銭は4文銭で2貫文を持っていたと。
亀山領主は石川侯。
尾張者のため中々厄介ごとであると。
これについては嘘や真実色々とある。
何ともむごいことである。

6月13日、天王崎(先)祭の際に烑灯の串が折れて騒ぎになる。
風のないので不審に思うと、この時12歳の女の子が船中で初めて生理が始まり、汚れたためだと。

7月2日。長久寺前に住む者が北の村で心中する。
同4日、ヲイセ(笈瀬)川で水死者がある。
同5日、熱田で少し火が出る。
同じ頃、江川端で人を殺し、ムサント(牟山戸、浮島ヶ原のこと)で身を投げる。
そのころ又志水で2人が首を吊る。
建中寺裏で1人が首を吊る。

7月5日と同6日の2度、町々の芸者を残らず役所に呼び出し、1に1人に酌女や芸子のようなことをしていないかと尋ねる。
わずか10歳にもならぬ舞子まで、少しでも座敷に出て祝儀を受けている者は残らずこのことを尋ねられ、その日から10日ほどずつ閉門となる。
また前津あたりなどのモカ(惣嫁のこと。モカというのは享保年中に百花(モモカ)という惣嫁が1人いて、埋御門北の新馬場のあたりにおり、夜は人を遊ばせる。そこから起こった名前である)もまた大いに叱られる。
芸者は近年城下で繁盛し、宮の飯盛りは衰微し、その上これは倹約を仰せ出される前置きかとも話している。
近年は三之丸向こうでも芸者なしの供応は何か不景気に見え、仕事の会合は最後には大騒ぎになっていたが、この時からぴたりと止み、町々もことごとく静かになる。
この後内々に座敷に出た芸子は直ぐに咎められ、或いは閉門、過料などを仰せつけられる。
この月末、江戸で芸妓を調べる一件がある。
これは売女風の行いがあったので咎められ、江戸では町芸者ということで済ませたと。
尾州では有無を言わせないと。
この後、背いたとのことで咎めを受けた者のことを追々伝え聞いたが、名前は省いて記さず。
ただ文面は次の通り。
所書、名前。
酌女、芸子のようなことは行わないようにと以前触れたことであり、その方からは近頃客席へは雇われて出かけていないと申しているが、家で客を受けるのも不届きであるので押込を申し付ける。
以後客席へ雇われて出かけることはもちろん、自分のところで客を受けることもないように。
重ねて、背くことがあればきつく申し付ける。
この通り、すぐに罰を与えたが、他所での稼ぎについてはさほど気にかけず、桑名、岡崎を始め近国へ行った者も多く、その他尾張でも周辺ではさして気にかけることはなかった。
しかしながら、この芸者だけが咎められ、芸者を呼んだ客は少しも咎められなかった。
これはおかしなことである。
この輩は禁止されたからといって、地女(素人)になった者は聞いたことがない。
(歌略)。

(p42~p43)