名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

こりゃ大被害だ

享保2年11月30日。
酉8月16日からの風水害での尾州・濃州領内損失の覚。
一 田畑高133500石ほど損亡、内高28000石ほど不作、高49000石ほど大損害、高23000石ほど中損害、高37500石ほど小損害。
一 堤3500間(1間は約100メートル)猿尾、井桁、定井堰とも損失。
一 堤23700間猿……とも破損。
一 石篭(蛇籠)9200間破損。
一 低家290軒流失。
一 圦5腹破損。
一 船46艘、廻船、艜(平太)小船とも破損。
一 米589俵流失。
一 材木1871本流失。
一 板子(厚い板材)101枚流失。
一 榑木、瓦木12130挺流失。
一 干鰯200俵。
一 吹折木、倒木18本。
男3人流失。
以上。
11月。

11月21日、御国奉行へ書付が出る。
御国奉行の手代、御代官の手代が百姓から賄賂を受け取ること、その他思い上がった行いなど様々細かなことを紙17枚に書いてあった。
御普請奉行へも手代のことで書付が出る。
町奉行・熱田奉行へはなかった。
来年にこのことを記す。
御国奉行へは5通出て、そのうち錦織へ1通、上ケ松へはなし。
この17枚のものは御国奉行5通のうちの1通で各地へ廻る書付であった。
御国御用人・御用人・寺社奉行・御目付衆へもいずれ書付が出て、大道奉行へも出る。
御勝手(財政)に関係する役所へも出る。

11月、小従人(身の世話をし、いざというときは兵士となる)天野佐十郎を成敗する。
諸士にあるまじき失踪をし、かつ侍のすることではない懸捨無尽(当選した者はその後のかけ金が必要なくなる頼母子)を行い、重ね重ね不届きであると。
小普請神尾外記ならびに子ども、同名の親類5、6人はいずれも追放となり、無尽(無尽講)の連中であると。
この春、佐十郎は外記のところへやって来たようで、途中から召仕を帰し、そのまま逐電した。
頼母子の懸金などをかなり集めて持っていたのを盗んで失踪する。
翌日まで待つも佐十郎が帰ってこなかったので佐十郎の母が訴えたため、外記は揚屋に入る。
近頃、旗本衆へ懸捨の無尽を行うのはきつく罰すると言いつけられると。
懸捨の無尽は入札は頼母子のようなもので、安い札を入れれば落札となり、とどのつまり博打だと。

12月22日夜、出雲守様(松平義方)、日向守様(松平義孝)様へ奉書がある。
翌23日に獲った鳥を進められると云々。
即刻請け取りに戸田山城守様へ出向く。
翌日御家門様方でも領地取の者ならびに御譜代の国主衆が登城し、三汁九菜の料理、吸物に獲った鳥を進められる。
終わって御座の間で対顔、懇ろの言葉をかけられる。