名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

今の備蓄米でもこの輩がいるはず

正徳5年1月6日。
琉球人が昨夜熱田に泊まる。
この日辰(午前7時)頃、本町を通る。
文左衛門と弥次右は、昨日合羽屋惣兵衛から4つ時(午前10時)に通るのでは知らせてきたので辰(午前7時)過ぎに惣兵衛のところへ行くと、既に通ったあとであった。
このため市のところへ寄って酒を頂き、市を連れて清須へ出かける。
宿よりは先へ出かけ、農家でゆっくりと琉球人を見物する。
両使を始め地位がある者は皆乗物に乗っていたので見えず、薩摩守押の者の羽織には菖蒲皮小紋に□の字を付けた者が多くいた。
起の泊りであった。
薩摩守は江戸に残る。
文左衛門はそれから堤の上で持ってきた酒を頂く。
その後、西枇杷島市兵衛の近くで鮒の吸物でまた酒を頂く。
弥次右は東枇杷島から駕籠に乗る。(後略)

一色茂左衛門は日頃から勤務態度が良くないからと1人扶持減らされて西尾三郎兵衛組小普請となる。
図書殿宅で申し渡される。
今までは21石に4人扶持であった。
昨年冬、町へ御蔵米が売り払われるとの触を回し、値段が下がった延米を買おうと企んだと云々。
その他にも先年から万事において悪知恵を働かすが一々記さず。
大村源兵・庵原平左・星野七右と共謀して御米のことであれこれ手を回すことがあったと云々。

酉半(午後6時)前、枝木町の辻番金山平吉が浄瑠璃・祭文を語り、過料400文を出すと。

昨年冬、おひろが小袖30を売払うが、取り次いだ町人が密かに自分たちの女房や娘、あちこちの者の小袖とすり替え、数だけを合わせて売り払うと。
とても結構なものであったがようやく35両にしかならなかった。
手を翻すようなやり方は嘆くべきか。
その後本物を少しずつ売ると200両ばかりになったと。