宝永7年1月1日。
年礼のため寅刻(午前3時)にいずれも登城する。対面所で礼を申し上げる。盃を頂戴する。
町医者で御目見する者は諸士の後で御目見し、盃を頂く。町医者の中にはまごつく者もいた。
連枝様方は卯(午前7時)前に礼をする。
家中の礼は卯(午前5時)に始まり、未刻(午後1時)に終わる。
宝永7年1月2日。
狩衣で対面所所上段に着座する。縁側で目付へ自ら礼銭を渡す。大目付は順に現れ、縁側で拝伏する。用人衆は披露する。下段東西に銚子・土器がある。両臂(ひじ)を畳につけて盃を戴き、酒を受けて飲み、右へと立つ。東に並び、飲んだ後は土器を脇差よりも下にさげ、片手で持つ。東縁側で坊主衆が現れ、土器を請け取る。最初に土器を戴くときは左の臂を畳につき、右の手をそえて土器を取って左の掌にのせ、右手もそえて両手で謹んで戴く。
宝永7年1月3日。
謡初43人の役者にふくさ(袱紗)1つずつ下し、その内大夫へ熨斗目ひと重ねずつ下す。
宝永7年1月4日。
辰半(午前8時)過ぎ、御下屋敷へ立ち寄るため出向く。夕暮れ前に帰る。
宝永7年1月5日。
巳半(午前10時)、建中寺を狩衣で詣でる。宝珠院様へも詣でる。
宝永7年1月7日。
建中寺を狩衣で詣でる。
宝永7年1月9日。
巳半(午前10時)、初めて梅昌院様へ出むき、玄関から帰る。八三郎のところでも同様。ただし、喜子進様・万五郎様へも祝儀をここで仰せ渡す。
宝永7年1月11日。
具足祝が例年通り行われる。召し出されたのは274人。膳は51膳。午刻(午前11時)、追い廻し(乗初)で馳道(貴人の通る道)へ馬で現れる。すぐに馬に乗り、地道を初めから終わりまで2度乗り、声が5回馳道に響き渡り、誰しもが恐れ入る。とても良い気持ちとなる。そして久足(休息)となる。(馬の一覧は省略)。帰りは南屋敷で弓の衆が的を射ることがある。
宝永7年1月12日。
出てこられる。
宝永7年1月15日。
出仕が終わり、御下屋敷へ出向き、逗留する。
宝永7年1月16日。
建中寺の参詣がなくなる。
宝永7年1月17日。
5ツ半(午前9時)、供を揃え、御下屋敷から帰城し、狩衣で巳半(午前10時)社参する。帰城の後また御下屋敷に入る。
宝永7年1月18日。
昼前、帰城する。一ノ宮・津嶋などの社人・社僧の礼があり、また御下屋敷に出向く。
宝永7年1月20日。
御下屋敷から城へ帰る。狩衣を着て三御仏殿を参詣する。帰城の後また御下屋敷へ出向く。
宝永7年1月22日。
巳(午前9時)過ぎ、御下屋敷から帰城する。昨年冬見物した残りの七兵・忠兵・伴左弟子が的を射るのを南屋敷で見物する。
宝永7年1月24日。
建中寺へ狩衣で参詣する。社参の御清めのため16日に建中寺を詣でなかったため。霊仙院様霊屋へも詣でる。