名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

宝永6年9月の徳川吉通の動向

宝永6年9月2日。
今朝寅刻(午前3時)、岐阜へ出向かれ、未(午後1時)過ぎ、岐阜に到着し、夕暮れ前に鵜飼を見物する。普段は12匹の鵜であるが、この夜は21匹が出る。加島勘右衛門のところに泊まる。
宝永6年9月3日。
卯刻(午前5時)、稲葉山に登り、それから辰(午前7時)過ぎに駕籠で出発する。昨今2度円城寺に立ち寄っており、清須・一宮へも昨今2度寄っていた。円城寺川を渡り、供を待っている時に見学に集まった中に白髪の93になる老人がおり、名を尋ねたところ松原村の源信だと云々。子を尋ねると浜島宇右衛門のところに遣わしていると云々。源信は浜島甚五兵衛の姉婿であった。源信の4代前までは城主だったと云々。石川理左衛門に命じて金1分・銀銭2文を下す。一ノ宮は参拝せず、見物だけと云々。乗物に乗ったまま神前で見物する。稲葉山の神社も同様であった。
宝永6年9月5日。
巳刻(午前9時)、建中寺を詣でる。
宝永6年9月7日(ママ)。
巳刻(午前9時)、建中寺を詣でる。帰りに御下屋敷へ寄り、夕暮れ前に帰る。
宝永6年9月6日(ママ前)。
奥舞台で能が行われる。巳(午前9時)前、梅昌院様が初めて城に入られ、対面する。申半(午後4時)に梅昌院様は帰る。村上武兵衛・三益が供をする。公からお迎えがあり、新番頭稲生伊右衛門が供をし、目付も供をする。公へ肴・酒いろいろと土産があり、主馬殿へ鯉3本を土産として持って来る。公からは貝桶・硯箱・櫛の台などいろいろと進める。(能の演目は省略)。鈴木屋右衛門は祝いの能係をよく勤めたと紋付と羽織を下す。
宝永6年9月10日。
常憲院様牌前への参詣が今朝急に中止となる。
宝永6年9月13日。
供を揃え、辰半(午前8時)過ぎに出発し、熱田を参詣し、帰りは船で戻る。帰りに松寿院様日置御下屋敷に入り、ちょっと見物する。御目見衆は熱田まで供をし、帰りの松寿院様御下屋敷からは帰ってよいとのことで全員帰る。夕暮れ前に帰城し、海蔵門の外で輿から下りる。衣冠を着用し、神前に銀10枚を献上する。神門の中は女も拝見することができたので三之丸あたりの女中がとても多く集まる。知多の供の帳が出る。(人名省略)
宝永6年9月14日。
巳半(午前10時)、御下屋敷へ出向く。
宝永6年9月17日。
巳(午前9時)過ぎ、御下屋敷から長袴で社参し、また御下屋敷へ直ちに帰る。
宝永6年9月18日。
下屋敷で能が行われる。御側衆も当番切だけが見物する。(能の演目は省略)
宝永6年9月19日。
昼頃、植田山に出向き、権平父子が案内し、自ら松茸を取ってとても機嫌がよくなる。松茸1000余りを長持に入れて帰る。末森の休憩所へも立ち寄る。
宝永6年9月20日。
5ツ半(午前9時)、供を揃え、御下屋敷から巳半(午前10時)過ぎに三ノ丸霊屋4ヶ所を参詣し、御下屋敷に帰る。
宝永6年9月22日。
5ツ半(午前9時)、供を揃え、御下屋敷から帰城する。
宝永9年9月23日。
5ツ半(午前9時)、供を揃え、知多を廻る。惣河戸から船に乗る。23日の昼は横須賀、泊りは大野。24日の小休憩は小鈴谷(コスガヤ)、昼は柿並大坊、小休憩は東端村、泊りは師崎。25日の小休憩は成岩(ナラハ)村、昼は幸(河)和、泊りは緒川。26日の昼は鳴海。このうち小休憩は何れも立ち寄らず。
宝永6年9月26日。
帰城する。
宝永6年9月29日。
巳刻(午前9時)、供を揃え、昼前御下屋敷へ出向き、夕暮れごろ帰る。