名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

人間、権力に溺れてはいけない

宝永5年11月3日。
勘定本締取田次郎左衛門は中村又蔵組馬廻となり、その上御叱りをうける。
翌4日に江戸を発ち、11日に名古屋に到着し、逼塞する。
次郎左衛門は役人たちに辛くあたり、下の者が迷惑するようなことを度々行った。
皆が怒っており、小さな子でさえ罵り、不快に思っていたと。
遠藤権内も次郎左衛門と争いになり、怒って役儀のことを願い出た。
振廻(振舞)はダメだと言いながら、贈物や賄賂を様々なところから得ていた。
その上、役儀の威を借りて裏で手を回したりしていた。
自分のところには金のかかる妾を多く並べていた。
妻も妾から迎え、衣服なども空恐ろしいほど贅沢であった。
小僧に刀を持たせて玄関から出入りし、夜は浄瑠璃語り・狂言師を毎度呼び寄せるなどその奢った行いを一々記することはできない。
これらの行為も役儀の威を借りた行いで、浄瑠璃語りなども次郎左衛門にすり寄る御用達の町人のところから来ていた。
そのため自分の思うと通りに番入・役替を行えないことはなかった。
近頃、江戸の長屋の名札に2度まで泥を塗る、あるいは糞を塗ることがあったと。
このことについての目付への申し開きもよくなかったと云々。
近頃、急ぎの御用で肴を取りに来たところ、勝手立合の者が値段の吟味するなどして遅れてしまい、間に合わなかった。
このためとても怒って機嫌を損ね、もう一度このようなことがあれば遅れさせた者の名・名字を申し上げると云々。
その上、御為(目上の利益、そしてそれで自分も利益を得ること)と称して、あり得ないことまで考えだす。
一昨年の御家中への借用金も自分の利益になるようにと手を回したと云々。

近頃、豆腐の煮物に鼠の糞が入っていた。
このため賄頭加藤弥五八は豆腐屋を代えたが、このことを報告しなかった。
このため少しの間逼塞し、許される。
御用達を代えた場合は必ず報告し、断りを入れるはずであった。