名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

男2人が集まった噂合戦か。

元禄15年閏8月14日
夜、文左衛門は政右と話をする。
馬廻小頭石黒善十郎が腹を切って死んだ。
生まれながら頭が鈍く、この時もすぐには死ななかった。
父親に聞いたところ、役を勤められないのでこうなった云々。
700石、その内500石は朱印の領分以外のもの。
他に蔵米80石を下されるが、これは500石ほどの新田を召し上げられた代わりに下されたもの。
60石小普請勝一郎兵衛が閉門となる。
町屋のため少し手を加えて封をする。
一郎兵衛子丹右衛門妾が子を宿した。
岩村の丹右衛門弟今井八郎兵衛のところへ行かせ、そこで男の子を産み、弟の子にした。
昨年、引き取ったが、断りを入れなかった。
この度、八郎兵衛が追放となったため7歳の男の子は市郎兵衛に預けるよう申してきた。
一郎兵衛はこれを頭に届け出た。
また、岩村からは預ける必要はないと申してきた。
これもまた頭へ届け出た。
しかし、近頃この子が死んでしまった。
この時、もう片が付いているのでと頭へ届け出ずに寺へ遣わしたところ寺は応じなかった。
こうなったのは注意が足りなかったと。
あるいは今度死んだのは3歳の女の子であり、7歳になる男の子を引き取る際に断りを入れなかったためと。
一郎兵衛は初め250石の雲侯(松平義昌)の足軽頭であった。
良い馬を持っており差し上げるはずであった。
この時、用人外山伝六はもう召し上げる必要はないとの口ぶりであった。
そのため他国へ売ると、それが耳に入り、配慮が足りないと小普請を仰せ付けられた。
この時、外山伝六のことも人は悪く言った。

ちゃんと報告していたのに、最後に間が差したのか。