名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

バカだなあ、名を名乗ってどうする

元禄5年12月22日。
未の下刻(午後3時)、初め金兵衛と名乗った時田喜兵衛が、大小を取り上げられ追放となる。
屋敷は闕所となり武士の身分でなくなる。
近頃、喜兵衛は仲間と泊りで鷹野に行くが仲間とともに呼び戻された。
これは喜兵衛だけ呼び戻せば、もし勘づいて自害してはいけないので仲間も一緒に呼び戻したと。
喜兵衛は直ちに吉田五兵のところへ行く。
家には入れなかったので鷹野装束のままで行く。
ここで言い渡し、急ぐようにとのことであったが御不憫と思われたのでこのごとく。
駕籠で追放となる。
田中恕信の子も刀を取り上げられ追放となる。
小普請吉田加右衛門組で御切米13石、親は権平で部屋は闕所となる。
親兄は逼塞を仰せ付けられる。
喜兵衛と権平は昨年冬古渡村へ行き博奕を打っていたところへ捕り手がどやどやと押し入った。
その時、その場に多くの武士がいたが多くの者は刀を捨てて逃げ去った。
喜兵衛も一度逃げたが、連れの権平が刀を忘れたからとわざわざ取りに戻り、田中権平と時田喜兵衛だと名乗ったり、刀を取りに戻ったのだ無礼なことはするなと言うなど余計なことをしてしまった。
喜兵衛従弟渡辺源右衛門・喜兵衛伯父同角右衛門と同平兵衛・同七内・従弟丸山加左衛門は遠慮(処罰・昼間の出入りを行わない)となる。