名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

誰か真実を教えて

宝永5年5月28日。
増上寺から建中寺の図を詳しく書き出すようにと申して来たと云々。
寺社奉行から江戸へ窺うと細かくは無用であるのでざっと書き出せとのこと。
この日までに図が出来上がる。

近頃、平岩七太夫娘が7歳で死んでしまう。
残る2人の男の子も痢病(赤痢)ですぐに死んでしまう。
太夫の母もすぐに死んでしまう。
太夫夫婦も煩うが、2人は後に回復する。

昨日のこと、白壁町で西川宇右衛門召仕が隣の秋元源左衛門屋敷の花を折って主の子に贈った。
あるいは山桃を壁越しにちぎったとも。
源左衛門はこれを見て激怒し、宇右衛門に手紙を送って召仕某を自分のところへ寄越せと云々。
あるいは自分の召仕としたいので下されたいと。
宇右衛門は召仕に用心しろよと自分の脇差を与えて遣わした。
召仕は源左衛門座敷の庭に入った。
あるいは庭の壺の中に入ったとも。
切りつけようとする源左衛門を反対に切って立ち退いたと云々。
あるいは脇差は外で抜いてしまったので刀を持たずに入り、、源左衛門をねじ伏せて源左衛門の脇差を奪って切る付けたとも。
このことは広井・山口・巾下の町中下々にいたるまでまるで本当のように噂になったが確かではなかった。
あるいは横井治左衛門召仕とも、内藤又左衛門が切られたなどというがいずれも根拠のない嘘であった。