名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

晴舞台

宝永7年2月13日。
卯3刻(午前5時半頃)、文左衛門はかちん(褐、濃い紺色))麻袴黒綿入1つ、黒羽織で家を出る。
上村猶右で弟子全員が待ち合わせる。
吸物・酒が出る。
辰(午前7時)前、御下屋敷中玄関から入り、玄関で待つ。
4つ(午前10時)前、庭に出るようにとのことで平地門から入る。
召仕は外に残し置き、中玄関の前の腰懸がある。
八田・福沢なども中に入る。
御前の前方に仕場(槍を見せる場)があり、いずれもそこへ行き、見物する。
小納戸衆もそこにいる。
巳刻(午前9時)過ぎ、源太左衛門の弟子が槍を披露する。
前方には文左衛門の槍及び福沢の槍を残らずまとめて中間が運び、置いてある。
新六が前方に持参するよう申されたので、槍・長刀(なぎなた)・十文字その他面・脇当はこちらから持たせる。
御前の南、平地門の外に脇差・羽織を脱ぎ置き、順々に現れ、柴垣を出て些と(チヨト)会釈し、手をつき、それから筵の上で御前に御目通り、中座平伏して東へ行き、槍を取り、互いに膝をついて立ち上がり、槍をそのまま指し置く。
また御目通りで中座平伏して退出し、表を過ぎて声をかけることは、源太左衛門が新六に伺ってから声をかける。
最後に望まれて友弥が平次左と1度槍を合わせると、源太左衛門父子を御前に呼び、弟子たちはよく訓練し、よくできたのでほめておくようにと直に仰せられる。
新六に仰せになり、新六から言わせる。
弟子どもはいずれもかちんの袴を着て、お祝いすることに気を使っていると公は感じられたと云々。
外の輩は3日間ともいずれも裏付の袴であった。
かちんはもちろん麻袴を着る者は源太左の弟子の他には1人もなかった。
福沢の弟子が終わり、八田吉右衛門が現れ、その後人払いをして中段を所望なさる。
その後、望まれたので源太左は右衛門が相手をして表長刀を披露する。
中段人払の時は側には主馬殿・頼母など2、3人だけで厳重であった。
鼻紙袋は源太左の挾箱に入れて置く。
いずれも焼飯などを持たせて食べる。
帰りは玄関に上がらず、そのまま出て行く。
新六と主馬殿へいずれも出向く。
この度の用務は主馬殿が承り、新六が勤める。
御目見衆は月番の国用人へ出かける。
文左衛門は頭へ出かけ、それから源太左へ出かける。
それから小頭両人へ会いに出かけ、様子を述べる。
昨日は小頭へ出かけ、この日出向くことを話していた。
福沢先右衛門は願い出て大ヨセ(?)を行う。
この時弟子の中で失敗する者があったと。
請太刀は柴垣を出るとき中座し、直ちに西へ行く。
帰り入る時は中座なし。
仕太刀は柴垣から出る時チヨと会釈し、筵の上を歩き、御前の通りを中座して終わり、また中座して帰り入る。(後略)