名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

何やら友だちも友だちだなあ

元禄5年11月10日。
都筑半助が清水で切られる。
筑半助は妻を亡くした後、身の回りの世話をしてもらうため女を通わせており、その後この女を妻としていた。
この女には幼い女の子がおり、その後大きくなって奉公させていた。
1日、この娘は筑後守中間と夫婦の契りを結んだ。
半助は獣のような人間で時々この娘と関係を持っていた。
近頃、半助は犬山よりやって来た。
水観音堂の裏屋にはかつて召し仕えていた新八という者が住んでいた。
そこへ半助は黄昏時にやって来た。
しかし、新八は外出中で婆ひとりがいるだけだった。
そこで半助は人を遣わして御役者中地喜右衛門のところに奉公に出ていた継娘を呼びに行かせた。
ある者が半助と娘の関係を知って女の夫へと知らせた。
夫は怒り狂って刃を研いで新八の家へと向かい、門を開けて中へと進んでいった。
婆は豆腐を買うため丸盆を携えて出かけていた。
小屋には誰もいなかった。
ふたりは出合うこととなったが、暗夜で明かりもなくてどれほどの距離があるのかわからなかった。
そのため刃物を振り回し、めったやたらに切りつけた。
半助は慌てふためくも刃物から逃れ、倒れ込んでうめくふたりの声だけが聞こえてきた。
中間も元々臆病者でどこかへと逃げ去ってしまった。
半助は軽く傷を負って片隅で屈んでいたが、中間が立ち去るのを待って丸裸で駆け出し、高岳院までやって来て急いで門を叩いた。
寺の僧に今までの概略を話し、急いで寺の中へと入った。
鮮血が垂れ、体中真っ赤に染まっていた。
怒りを表すこともなく、革の張型を陰茎につけた60ほどのひげ面の男が両手で涙を押え、わなわなとなく姿はとても滑稽であった。
親類がやって来たが見るに堪えず突き殺したと云々。
一説には、高岳院は半助の旦那寺であったので200文で人を雇い、清水から半助と娘を駕籠で遣わしたが、途中で半助がうめき声をあげながら死んでしまった。
そのことを清水の庄屋どもが急いで国奉行に知らせなかったので、調べが難しかったと。
また、番を付けると。
半助は生まれついての軽率・好色の者あった。
昔、仲間と江戸へ行った際には新井の渡しで船に乗り、仲間の羅紗の煙管入れを手に持ちタバコを吸おうとした時に前後で大きなボラや大小の魚が川面を飛びはねた。
それを見た半助は名古屋なら投網で一網打尽だと網を打つ真似をして煙管筒を川に投げ入れてしまった。
仲間は半助いつも失敗だと笑っていた。