名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

早く手を打たないとみながパニックになってしまう

元禄5年2月22日。
晴、酉8分(午後7時近く)坤(南西)の方角に火の手があがる。
文左衛門が走って見物に行くと、煙が空を覆い火の粉が空を舞っていた。
屋根に上る者もいれば、大団扇であおぐ者、円座でつむじ風を叩く者、燃え上がる炎に
水をかける者もいた。
このため足軽頭は走り回り、大目付も出ていた。
町人の中には水桶を積んでやって来た者もおり、その数は数え切れなかった。
赤ん坊は泣き叫び、老いも若きも逃げまどった。
車馬は雷に驚いたように興奮した。
亥(午後9時)近く、家は崩れ落ち、火は消えておさまった。
呉服町通、伝馬町と桜の町間は東西全て焼けてしまった。
この火事の最中の戌4刻(午後8時半)、鳴海から火事見回りがたくさんやって来た。この素早さはどうもおかしかったが、後々よく聞くと、夕暮れ時に鳴海から名古屋の方を望み見たところ空が光り輝き大火事のようであったので慌ててやって来たと。
今は戌の半時(午後8時)であり、それほど素早かったわけではないと言った。
この火事は天火(落雷による火事)に違いないと言った。
また、紺屋小十郎の弟が隣に住んでいたが、出かるので兄の小十郎のところへ来て留守居を頼んだ。
中に入って灯を置いたが、それ以外に火の気はなかった。
戸を閉じて外に出た。
その後小十郎は留守居を遣わした。
留守居に行った者が戸を開けて入ろうとすると、家中に煙が立ち込めてなかなか入ることができなかった。
留守居は驚いて走り帰るが小十郎の2階から火の手があがった。
弟の持っていった行灯のそばには燃えそうなものはなく、その他に火種も無かった。
戸を閉めてすぐに火が上がったのもどうもおかしかった。
また小十郎も2階へ火を持って上った者はいなかったと云々。
文左衛門が考えるには、最近の騒動はただ事でなくきっと放火に違いないと。
町中では毎夜毎夜交代で火の用心と呼びかけるのいかめしさである。