名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

吉通の死去はいろいろと噂があります

正徳3年7月26日。
9月25日から稲荷御社内で一代能(一世一代の能)が行われる。
田中源之亟という札があちこちに立つ。(後略)

公(吉通)が25歳で逝去する。
この日申(午後3時)頃までは変わった様子はなかったが、申過ぎ頃に上野小左から少し疝痛(腹痛)があるので今日中にも出向くようにと言ってきたので出かけると皆々様は残らず揃われていた。
様子はどうかといううちに危篤となられるが、戌半(午後8時)には少し快方にむかわれた。
夜中には様子は変わらないと御用人衆から話があったので、皆々様が帰られたところ、丑(午前1時)頃、御用人衆からの廻状で戌(午後7時)逝去と云々。
子刻(午後11時)、様子を尋ねに上使鳥居伊賀守がやって来たが、御老中が門外へ出て危篤なので帰ってくだされと云々。
鳥居伊賀守は若年寄で御城泊番から知らせを受け、急いでやって来た。
とにかく津守(松平義行)の考えを聞きたいと門内に入ると、玄関に灯りはなかった。
廊下も暗闇でごった返していた。
津守様を呼びにやるが間に合わず、市買始まって以来の大失態と云々。
大隅様(徳川継友)衆からきた手紙を写す。
危篤の届けに高木主計を公儀御老中へ遣わし、高木主計はその旨を申し置いて帰るようにと云々。
しかし、御老中は何れも高木主計に会い、細かく容態を尋ねられた。
主計は全く知らないことであったので何も話すことができず、上手く取り繕うとしたが公儀の医者が来ていたので自分の言ったことと違ってはいけないと何を尋ねられても下を向くばかりで汗が背中をつたい、恥を晒すだけであった。
酉刻(午後5時)頃、服部喜大夫の使いとして渋江正軒がやって来た。
容態を診て、側にいた大野方安に病状などを尋ねた。
方庵は近頃少々疝痛があったけれど、急を要するようなものではなかった。
たった今亡くなった急死だと答えた。
正軒が言うにはお前も医を職業とするものであるので、私がわかりやすくお前に教えてやろう。
おおよそ大名に急死というようなことはない。
なぜならお抱えの医者がおり、朝に夕に脈を診ている。
もしいつもの脈と違えばそのままにはせず、たとえ身体に病の気配や痛みがなかろうとなぜ命を落とすような脈になぜ気づかなかった。
小身者はお抱えの医者がいるわけではないので急死もありえる。
お前は今朝脈を診なかったのか。
さらに脈を診なかったとしても、その様子を診ると亡くなるまでかなり時間があったはずであると言った。
亡くなっては登城が汚れると脈を診ていなかった。
お前はどうしてでたらめを言うのか。
方庵は一言もなく、顔は土色になり、とても困ってしまったと云々。
正軒が外へ出ると御番頭衆と出会い、どのような様子かしりたいと言った。
その内に肴の吸物などが出てきた。
正軒は興ざめし、亡くなったにもかかわらず事情に疎いと思いながら挨拶もせず、ただ御家には医者はいないと言い、またこんな時に吸物頂くつもりはないと退出した。
挨拶した衆もはなはだ面目を失うと云々。
公儀の医者須原通玄もやって来た。
国府宮夢物語のある新御座敷には頼母と妹の2人だけがおり、ここで亡くなろうとしていた。
頼母はここで亡くなられては自分たちの面目が立たないことを心配し、殿を引き立てて連れていこうとすると、荒げた声でああ苦しい、ここで休むと言われた。
しかし、恐れ多くも御座の間まで連れて行った。
何たる大罪と人々は悔しがる。
病中、死去を隠し、そのうちに御側衆まで御前でありながら我先にと盗みを働いたことは一々記さず。
姫君様が出向かれたが、既に亡くなった後で遺体に取りつき、気を失われた。
腰が立たず人々に抱きかかえられて帰られた。
その後御局が現れ、側にいた者たちを並べて思いとして言われたのは、この度のやり方は人間の行いではなく、畜生の行いだと云々。
また駿河守(大道寺)に言われたのは徳姫様のことは今まで方安(ママ)が預かっていたが急いで引き取るつもりだと云々。
徳姫様は外岡清兵衛娘の子であった。
駿河守がこの節のことは重ねてゆっくりと引き取られては言うが、局は声を高くして畜生のところにいては穢れてしまうのでいまいましいと。
さてさて畜生のために御前をはかなくさせると罵ってわめくと云々。
8月1日に徳姫様を引き取る。
死去の御使には竹腰壱岐守が出かけ、翌27日午刻(午前11時)過刻、市買へ御悔の上使として土屋相模守がやって来られた。
19日に登城がないため、毎日御老中なども御機嫌伺をされていた。
壱岐守と駿河守は3度まで御目見を願われたが、頼母などが少しも気遣いは必要ないと言った。
ただただ無理だとのことなので、重ねて重ねてと申し置くだけであったのでいかなる病状かは知る者がなかった。
25日に方安に殿は殊の外気分がすぐれない、お前は私を殺しはしないかと言われたが、もったいないことでありますので少しもお気遣いいただく必要はないと申し上げた。
方庵の肉を塩漬けにして罰するのは当然である。
ふう。
或いは、本寿院様へ御忍びで出かけられ、いつものように大酒を飲み、戻ってから病になられた。
26日に吐血とも云々。
26日に津守様が品川浜の御屋敷に出かけられたが、申の刻(午後3時)急に呼びに来たので急いで馬で戻り、申下刻(午後4時半前)に市買へ入られた。
品川へ行く前に市買へ入った時は気分も良かったとのこと。
市買の御側衆へは御目見も蔑ろで、言葉もかけずと云々。
28日、市買へ土屋相模守を上使として香典銀1000枚を進められる。
この日入棺が行われ、天徳寺が勤めた。
御連枝様方の焼香が行われた。
姫君様は薙髪され、瑞祥院と号された。
日光准后より名を進められた。(歌略)
逝去の際、名古屋の稲荷社は揺れ動き、小さな鷹が1羽死んで落ちていた。
少し前、稲荷の狐がついたという者が256人余りと云々。
されど侍にはこのことは大して知れなかった。
文左衛門の相役の手代野村安右衛門の子も取りつかれ、三宅与兵衛に多分頼むと云々。
しかし、逝去の後この狐がいなくなったのか、皆回復した。
江戸への長期滞在や節約のため飼っていた猫ほどの大きさで細長い小まみ(あなぐま)と鹿3疋を水野へ送り、6月末頃に放った。
水野御殿は台所だけが残り、御殿などの材木は置いてあったが、残った台所も壊して引き取ったところ、程なくして逝去された。
水野御殿は敬公(徳川義直)が建てられた御殿であった。
この秋の松茸を五郎太様が幼少のため水野で売払う。
5、6両ばかりと云々。

空性という手練の売僧が願人のところにいた。
五味弾右とはよしみであった。
内意があって2、3年前に願人の元を離れ、若宮の向かい朝岡半入の家を買い求めて住んでいた。
判を見る申立(?)であった。
五味のよしみで度々ここへ行って取り入る者も多かった。
御国奉行などさえも行くと云々。

大須で玄竜という願人はいろいろと軍談を行っていた。
家中の侍も1、2年もてはやして、呼んで軍談を聞いていた。
1日で300文ずつ。
山田右衛門はこの夏平岩七太に頼み、願人の手を離れるよう頼んだが、受け入れなかった。
7月下旬、加納へ行くと出かけたが、それから帰ってこなかったと云々。
実父は釜払(釜の厄払いをする者)だったので名古屋で仮の父母を頼み、住んでいた。