名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-03-01から1ヶ月間の記事一覧

責任は僧にある

宝永5年7月16日。鳥屋甚平が乱心する。僧がやって来て鳥商売を戒めたと云々。このためふと思い立ち、鳥を逃がしてわけのわからなことを話していた。ほかにも僧を夢に見たと。

久々に芝居の話題

宝永5年7月14日。大須で十三郎狂言が行われる。演目は源氏東鑑で、他に芝居がひとつ行われる。三国小大夫38才は軽業で手毬3つを片手で持って落とすこともなく、はなはだ名人だと。

乱心で片づけてるけどわけがありそう

宝永5年7月13日。今朝、大森寺の若党高松伝右衛門が乱心し、刀で腹を切り、その上喉を切ってしばらく生きていたが死んでしまう。伝右衛門は門前に家を持ち、妻子もいた。45才。

悪人だらけじゃないですか

宝永5年7月12日。近頃、榊の森の裏で3、4歳の子どもが足を縛られ、石を付け、顔に木綿をかけて殺して捨ててあった。日が経ってから近頃見つかった。詮議の後で捕らえられた者たち。里子殺しで愛智郡込野村休円の女房。少し前に里子を殺し、禅寺町の下へ…

娘のおかげで侍に取りたてられた

宝永5年7月10日。少し前、取売(古道具屋)文右衛門が犬山へ引っ越し、隼人正から居所を頂戴し、合力金(援助金)などを給わり諸士となる。これは文右衛門の娘が隼人正の妾で、少し前に女の子を産んだため。

あの物騒な書置のあった相応寺

宝永5年7月8日。住職がいない間の相応寺は足軽頭が守ることとなる。昼は足軽3人、夜は6人で30日交代で行う。初めは野呂瀬半右衛門、その次は平野甚右衛門が務める。

今ならまじかに見ることなんてできない品々

宝永5年7月7日。卯(午前5時)過ぎ、文左衛門は源蔵・藤内と上下を着用して熱田を参詣する。神主田島丹波仲頼は知り合いであったので神垣(神域)の中に入り、廻廊に座し、御饌(神様に献上する食事)が上るのを見る。五膳前。数十人の祢宜が冠、烏帽子…

1日中どこかでご馳走になっている

宝永5年7月6日。巳刻(午前9時)、文左衛門は弥左へ出かけ、酒などを頂き、それから政右と相応寺へ出かける。法輪院で吸物・酒・冷飯などを頂き、前島喜六に立ち寄り、また酒を頂く。2人ともとても酔ったので召仕を帰し、東矢場へ出かけて涼む。申刻(…

皆に慕われた僧ですね

宝永5年7月4日。想(総)見寺前住妙心三住白翁和尚が先月22日に濃州園城寺の別庵(隠遁後の住まい)で死ぬ。この日、想(総)見寺で一派の多くの僧で大法事を行う。

これも地震の影響なんでしょうか

宝永5年7月2日。熱田では高潮となる。船番所へ潮が流れ込み、熱田奉行は逃げ出そうとするほどの高潮であった。

宝永5年7月の地震です

宝永5年7月10日。未刻(午後1時)、大きな地鳴りがする。寅刻(午前3時)、少し地震がある。宝永5年7月12日。酉半(午後6時)、長く地鳴りがする。宝永5年7月13日。明け方前、少し地震がある。宝永5年7月20日。酉(午後5時)過ぎ、地鳴…

宝永5年7月の天気です

宝永5年7月1日。雨が降るが、辰(午前7時)から止む。巳(午前9時)過ぎから晴れる。今朝明け方前寅の刻(午前3時)、吉見兵部が御宮へ出仕すると埋門の扉の下から西へ水が滝のように流れ落ちていた。門内の水は膝が沈むぐらいあり、志水甲斐の辺りや…

先ほどの天歴の死体見分での出来事

宝永5年6月9日。十人衆高木新介・関留市兵衛がやって来て検視を行った。市兵衛は血を見るや目を開けて仰向きに倒れ、気を失ってしまった。外の座へ連れ出し、駕籠で帰宅させた。癇癪と云々。このため間宮甚五左衛門を呼びに行かせ、新助とともに天歴の死…

こういうことを聞いてやるのが上に立つ者の務めだと思うけど

宝永5年6月29日。東鉄門の土橋辺りの石垣の側の地面に長さ2、3間(1間は約1,8メートル)、深さは4尺(1尺は約30センチ)ほど、幅は2尺ばかりの穴が開く。相応寺天歴自筆の書置があった。その内容は、高岳院に泰心院様が何度かお訪ねになった…

町奉行もいいかげんだなあ

宝永5年6月26日。この日頃、堀川納屋の辺りに誰の仕業か分らないけれど御芦が流れて来た。津嶋や戸辺のものではなかった。思うに納屋の若い者が内緒で踊りの稽古をしていたが、この者たちの仕業かと。町奉行からも突き流すようにとのことだったので、着…

借りた者と貸した者で明暗

宝永5年6月25日。矢田で惣打が行われ、新左衛門が出る。小川勘右衛門は庄右衛門とは関係がないとの申し訳が立ち、許される。これにより庄右衛門から金を借りた者はいずれも徳(得)をする。近所では成田藤左衛門の身代は庄右衛門が肩代わりしており、い…

文左衛門の役料の売り払いに比べるとかなり高価

宝永5年6月24日。一色茂左が言うには、公の餅米が不足して町人に入札をさせた。1両で3斗8升と云々。おおかた選りすぐりのもの。

頼りになるのは現金

宝永5年6月22日。文左衛門は役料米を売払う。1両で7斗5升5合、買留は4分で7斗6升。

武士の身分も金で買えたか

宝永5年6月18日。山城守組に150石で牧孫兵衛が入る。父は福塚の百姓で、乗馬2匹を持つような金持ちであった。今は没落していた。山羽平兵衛の小舅であった。

馬鹿げてる

宝永5年6月17日。近頃江戸でのこと。公は酒をとても嗜まれる。五十三次という小さな盃があり、そこには宿ごとの蒔絵が描いてあった。これを並べ置いて、一度に飲むのが美徳とされていた。その後早飛脚という盃ができ、これには五十三次が全部入るもので…

もうそんな季節

宝永5年6月16日。祭礼が例年通り行われる。

リハーサル

宝永5年6月15日。試楽が例年通り行われる。

少し悪意を感じるなあ

宝永5年6月14日。手代安右衛門が飛騨の下呂から帰り話してくれたこと。上呂・中呂・下呂というところがあり、いろいろと不自由なところで黒米1升の代金が100文位、銭は1分で1貫あまりであった。生魚、とうふ、こんにゃくなどはなかった。米も1度…

侍をからかってるのか

宝永5年6月11日。近頃、文左衛門の住む町で戸を縛られる者がある。清水でも酒屋喜左衛門とそこから南の小家2軒が縛られる。男奉公人を隠し置いたためと。少し前から江戸と名古屋でデマがはなはだ流布する。時には果たし状を付け、または目付からの呼び…

ありがたや

宝永5年6月10日。知恩院大僧正丹理が熱田に泊まられる。鎮西派の直末(直参の末寺)は残らず出向いてお目にかかる。

かなり厳しい処分では

宝永5年6月9日。夕暮れ前、正方寺町下皆戸町エツル(ママ)まで燃えるが、すぐに消し止める。様物が1人ある。一の宮の社家(神職)であった。悪事が多くて追放となったが、立ち戻ったのでこうなる。

領地の石高何万石と言っても表と裏がある

宝永5年6月8日。両村(長良村と野崎村か)の麦の値段が1両で1石2斗。蔵の値段は1石1斗5升。尾州領分の砂除金が段々と百姓平田のところへ持ち寄られる。この日は智多郡・愛智郡から砂除金を差し出す。初めは100石に2両であったが、尾張公の表向…

自らの意志か、それとも事件か

宝永5年6月6日。日暮れ、野崎源五右衛門家来毛坊主役19才の吉田茂八がどこへ行ったか行方がわからなくなる。少し前の内藤浅右衛門の支配人と同様のこと。

ぼたって何でしょう

宝永5年6月3日。ぼたの(?)大坂懸り船(停泊船)に雷が落ちる。船頭2人が雷に打たれて死んでしまう。帆柱も砕ける。

恐れ多い人の名前は使ってはいけない

宝永5年6月2日。寄合で小沢九郎左衛門が話してくれたこと。4、5日前の晴天の日、町を通っていた鍛冶屋の屋根にどじょうが20ばかり落ちて来て跳ねているのを見たと。鵜が飲んだどじょうか。寅(午前3時)過ぎ、堀川水主町で1軒が火事になる。場所は…