名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

今ならまじかに見ることなんてできない品々

宝永5年7月7日。
卯(午前5時)過ぎ、文左衛門は源蔵・藤内と上下を着用して熱田を参詣する。
神主田島丹波仲頼は知り合いであったので神垣(神域)の中に入り、廻廊に座し、御饌(神様に献上する食事)が上るのを見る。
五膳前。
数十人の祢宜が冠、烏帽子、覆面をして御膳を上がる(召しあがる?)。
音楽があり、社僧が迦陀を読む。
丹波守が祝詞・奉幣などを行う。
刀・脇差21腰の御拭いが行われる。
砥ぎ屋2人は上下を着ている。
その中でも吉光と云々、しのぎに金の巴、象眼に入る八幡太郎の紋がある蜘蛛切丸と癬(アサ)丸・熱田国信の3腰は特に大事なものと云々。
残りの三条宗近・波ノ平・豊後行平・実阿・吉光・国行・正恒などはいずれも稀代の道具であった。
文左衛門はいずれも手に取って拝見し、感無量であった。
小道具は日本武尊御影の掛物・道風の筆・駒の角・天狗の爪・蛇の鰭(ひれ)・茶入・大政官府初一通菅相丞の筆、とみのを(鴟尾)の瑟(コト)、その他書本の日本紀の巻物、小瀬甫庵道喜慶弔十八年七月七日奉納の板行の信長記一部ならびに自筆の願書・唐渡法花経金泥で書いた木庵慧鎖筆。施主は奉翊致仕朴と云々。
帰りに沢で食事をし、午半(午後0時)に文左衛門は帰る。