名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

宝永の大地震

宝永4年10月4日。
観誉理清の50回忌で文左衛門は昼前に高岳院を詣でる。
香奠は200文。
以前の廻文で法事の後はのんびりとくつろぐようにとあったので、参詣の者のほかにも鈴木藤入・曲淵源太もやって来ていた。
源右衛門・権内・治部右・源兵・勘八・七内も居合わせた。
書院で夕飯が出て酒が一通り廻った時、東北から地鳴りがして地震が起こる。
未1点(午後1時過ぎ)のことであった。
段々と強くなり、おさまらないので皆で申し合わせて庭へ飛び下りる。
たいていの者は裸足であった。
地震はさらに強くなり、激しく書院が揺れ動いた。
強風が吹いているかのように大木がざわめき、大地の強い揺れで歩くこともできなかった。
石塔の倒れる音は言い尽くすこともできなかった。
しばらくするとようやく静まり、座敷に上がると三の丸で火事が起こったとことで、文左衛門はひとりで酒をついで3杯飲んで急いで帰宅し、両親ならびに家内の安否を確認し、直ちに政右と多門へと出かけた。
両城代衆、そのほか阿部縫殿、ならびに側同心頭、国用人、目付などその他諸役も出ていた。
城帰り、また高岳院へと出かけると、藤入・曲淵・源兵・勘八・権内も居合わせた。
源右も後でやって来た。
濃茶・うどん・酒などを頂き、酉半(午後6時)に帰った。
城内の破損ははなはだしかった。
南北20間(1間は焼く1、8メートル)鉄門の北の多門、南北31間の南の多門は残らず内に倒れ落ちて微塵となり、土台だけがわずかに残っていた。
堀の中へは崩れ落ちず、内側へ崩れ落ちていた。
このため今夜から城代足軽が寝ずの番をした。
思うに、この多門の中には作事方から古木をたくさん積んで置いてあり、地震で揺すろうとするが、かなり重い材木であったので揺れまいとしたので崩れてしまったか。
西鉄門の内では番所西の屋根瓦が少し壊れた。
これは上から崩れ落ちてきたため。
この多門が崩れた際に土煙が激しくあがるのを見て火事が出たと言っていた。
天守の壁土は所々落ち、出破風では残らずくさびが引きちぎられたり、1寸(1寸は約3センチ)、2寸、3寸程ずつ取れてしまった。
それでも抜け落ちたものはなかった。
楠の大土台は西の方へとずれ動いた。
具足多門の北への折曲がりは大いに傾き、槍多門も傾いた。
太鼓矢倉ならびに巽の隅櫓も激しく壁土が落ち、下地が現れた。
このほかあちこちの多門・櫓などでも壁の下地が現れ、壁がひび割れ、瓦の落ちたところも多かった。
いちいち記すこともできない。
ただし、石垣は一ヶ所も破損しなかった。
榎門の東の塀は全て倒れた。
ここにも城代足軽が寝ずの番をした。
西鉄門南北の多門の崩れた跡は11月頃に7尺(1尺は約30センチ)ほどの竹で菱垣を結った。
そのため葦(よし)ずを集めた。
以前の寛文2寅5月1日の大地震より今度の地震は大きく長かった。
諸士屋敷の舎塀は10の内7,8は崩れていた。
文左衛門の屋敷は舎塀が多かったが、1間も崩れず幸いであった。
近所で表の舎塀が崩れたところは神谷段之右衛門・岡本武左衛門・徳光九左衛門・本多六兵衛・一色伝右衛門・津田太郎右衛門・三浦十郎兵衛・荒川治部右衛門・松尾作右衛門・野呂瀬又右衛門・成田紋太夫・天野小麦右など。
いちいち数えることもできなかった。
広井あたりに特に多かった。
寺々の石塔も多く倒れ、もしくは折れて砕かれていた。
善徳寺では文左衛門の石塔も少し破損した。
間に倒れたものもあったが何とか無事であった。
高岳院では文左衛門親類の石塔はひとつも倒れなかった。
宮ならびに仏殿、建中寺などの霊屋などの石灯籠は全て倒れていた。
古田勝蔵の並びの屋敷の裏では地が避けて、泥水が湧き出ていた。
あるいは地面が5、6寸ずつ沈んだ。
清水では観音堂の側と東側とで家19軒がつぶれた。
これは家を建てた土地が悪かったのからかと。
以前あった蓮池をいいかげんに埋めたのでこうなってしまったか。
枇杷島の東の大橋は中ほど4、5間の柱が6、7寸ほど沈んでしまった。
法界門および新屋(ニイヤ)の堤は裂けて崩れた。
このため当分は馬の往来は出来なかった。
海辺の堤は100間から2,300間に渡って崩れ、泥水となるところも多かった。
領内で破損、崩れた堤はあわせると5000間ほど。
名古屋では地震で傷を負った者はひとりもいなかった。
もちろん死んだ者もなかった。
ただし、お産などの病人を介抱できずに死んでしまった者は時々あった。
いまだに尾張の領分で死んだ者のことは聞いてはいない。
これは不幸中の幸いである。
竹腰山城守の内儀は踏石で頬をかなり傷つけるが、傷はよくなった。
未の刻(午後1時)の大地震から夕暮れまでの間に大きな揺れはなかったが、地が揺れることはたびたびあった。
この夜、文左衛門の家内では誰も寝れなかった。
文左衛門がだいたい数えたところでは小さなものもあわせると揺れは60度ばかりあった。
その中大きなものはなかった。
時に地鳴りがしてがして揺れ、時に地鳴りもなく揺れ、地鳴りがしても揺れないこともあった。
隣近所などもどこも寝れなかった。
あるいは、藪のあたりに縁取を敷いて外で寝る者も多くあった。
熱田の海などでは潮がとても高くなり、進むことも退くこともできなかった。
新屋川まで潮がやって来た。
熱田の社内は無事であったが、寛文寅の地震で倒れなかった佐久間大膳太夫が建てた石灯籠は西へ倒れた。
地震のほかにも津波がやって来ると熱田では人々が騒いでいた。
この時頭人の祢宜1人が神前にいたが、大麻を持って海へ出かけ、覚悟の上大麻ひとつを手に捧げ、ひとつを海に投げ入れた。
すると大きな高波が一の杭まで来ていたが、たちまちふたつに割れ、その中から火の玉3つが飛び出して天へと上った。
そして波は智多の方へとそれて行き、熱田へは少しもやって来なかった。
これを見た者は多くいた。
熱田御殿の長屋は潰れた。
同じ場所の動院の瓦などは落ち、屋根の上の宝形は地面に落ちた。
津嶋では家100軒余りが潰れた。
天王橋は途中でねじれてしまった。
智多あたりでは高浪で家が潰れたところが多かった。
大野村は特に波が来ており、潰れた家は7、80軒ばかりあり、海に流された家は2軒あった。
常滑村では壺を焼く竈が潰れ、竈焼きのために用意してあった松が全て浪にさらわれた。
このほかあちこちで破損、地が裂けたり、堤が裂けたり潰れたが数えることも出来ず。
この春のように寒さが続き、それが厳しく、さらに城の堀の水がことごとく涸れて八角に裂け、夏ごろから犬たで(蓼)が一面に生えたこと。
夏には雷や雨でジメジメするも、雨にも湿らず、近頃まで少しも水がなかったこと。
11月頃からようやく水を湛えたこと。
このようなことは60ばかりの輩でも全員覚えがないことだと言っていた。