名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

こりゃ中々の大火

宝永4年2月1日。
酉半(午後6時)、白壁町角の久松弥一右衛門の奥から火が出る。
ちょうど乾(北西)の風が強く吹いており、すぐに成田紋太夫のところへ燃え移る。
風は段々とおさまる。
成田紋太夫のところでは土蔵に至るまで残らず焼失する。
佐々木岡右衛門の長屋、小藤善助のところも残らず焼失する。
そこから磯松与右衛門のところへ燃え移り、残らず焼失する。
海部伝右衛門の長屋、門・塀なども焼失する。
成田長左衛門の勝手東の方も少し焼け、引き崩す。
東の塀・門・長屋など残らず焼失する。
野呂瀬又右衛門・中嶋宅右衛門・平井六之右衛門のところでは塀覆いを全て引き崩す。
丸山伝之助のところでは雪隠・薪部屋・塀覆いを全て引き崩す。
亥(午後9時)前におさまる。
近頃、世の中では水が干上がっていた。
井戸も干上がり、屋根の上も渇いていたので火が燃え移るのが速かった。
与右衛門の本屋へ飛んできた火の粉を消さなかったので終には火が燃え上がった。
残念なことであった。
文左衛門の家のあたりには火の粉が飛んで来なかったが、用心のため屋根の上に水を撒く。
文左衛門・伝助は政右のところを見舞う。
太夫は在江戸であった。
預かっていた鉄砲ならびに旧記何巻かは杯も残らないほど焼けてしまった。
その後、在江戸の報告をし、鉄砲ならびに小道具の弁償は免れた。
昨年の田代五右衛門は弁償していた。
これは在江戸でその報告をしていなかったため。
火事の時、甚四郎は紋太夫のところで浄瑠璃を語っていた。
このためすぐには火事を聞きつけなかったと云々。
甚四郎は慌てて三味線と本を捨てて焼いてしまった。
又右衛門のところでは水が不足していたので醤油樽を傾けて火を防いだ。
鍋屋町あたりへ火の粉が多く飛んできて、大光寺も少し燃えたと。
弥一左衛門の長屋は無事であった。
女房はどこかへ出かけてのか見えなかった。
中居の女と3歳の男子が焼け死んだと。
いろいろと噂があったが全て嘘であった。
弥一左衛門の女房は原田八右衛門の妻と姉妹であったと云々。
八右衛門のところへ弥一左衛門は立ち退くと。
この後、類焼の輩へ白鳥の材木が下される。
もっとも7月に代金を取る。