元禄15年閏8月23日。
書院番本間浅之右衛門に仕える男と婆、五十人徳山勘助に仕える男が3人で伊勢を詣でる。
共に若党にはあらず。
夕方、櫛田に泊まる。
この朝、徳山の召仕は辻博奕を見ていた。
博奕打ちが何度も博奕をしろと言うが参加はしなかった。
すると博奕打ちは見物させないと言って笠で顔を覆った。
そうこうするうち落とした鼻紙袋を博奕打ちが拾った。
これを盗んだと言うと博奕打ちらは怒り出し、盗人とは堪忍ならぬと刀を抜いたので2人も刀を抜いて切り合った。
盗人らは12人ほどいたが2人は切り殺され、2人は傷を負い、残りは逃げ去った。
2人とも袷が少し切れたが、身体には当たらなかった。
ただし、浅之右衛門の召仕は少し脇差が傷ついた。
徳山の召仕は坂の側の茶に置かれ、40人ほどが番をした。
こちらへ申してきたので五十人目付長坂権右衛門が足が津4人を連れて2人を請け取りに向かい、寺で請け取って帰って来た。
現地では殊の外手柄と称賛し、こんな雲助を切ったことを喜んだと。
この悪党たちは護摩の灰という住所不定の極悪人だった。