名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

やはり死罪となりましたか

文政2年6月23日。
隠居高垣八郎平。
その方についてはいろいろと行いが良くないと聞いており、一昨年御咎めを仰せ付けられたが、その後も慎まず、おかしなところへ出入りしていると聞いたので昨年蟄居を仰せ付けられた。
しかし、それ以後も慎まず、頭の方から申し立てがあったので、取り締まるため町奉行同心を差し向けると同心に傷を負わせ、同心はこの傷が元で死んでしまった。
これは親類どもがちゃんと面倒をみなかったのでやむを得ずこうなってしまったかもしれない。
かれこれ申し立てることもあるだろうが、始末不届で死罪を仰せ付けられる。
(朱書)
天保6未、召し抱えられ小普請組仰せ付けられ、その後、御鷹匠仰せ付けられ、その時、島に妻子がいた。
唐船の謡曲(能の演目、子供の間で板挟みになる父)のごとくなりしと云々。」
小普請組 八郎平養子実弟 同姓伝兵衛。
養父隠居、同姓八郎平に不届きがあり、死罪を仰せ付けられたので、流罪を仰せ付けられる。
御広敷詰 八郎平伯父 青木平大夫 惣領 同姓熊次郎。
不束(行き届かないこと)の儀があったので逼塞仰せ付けられる。
小普請組 伝兵衛弟、八郎平弟 山本助作。
文言同断。
この親類はいづれも50日の逼塞で許される。