名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

強制執行ですな

元禄9年7月5日。
暁前に雨が降るが、しばらくして止む。
申刻(午後3時)から雷が轟き、黒雲が空を覆う。
文左衛門は昨夜寅半(午前4時)から矢田へ行き、100目で5丁を打つ。
3尺(1尺は約30センチ)の筒であった。
縄は6尺5寸(1寸は約3センチ)。
(後略)
鉄砲を打ち終わると雨が降り出す。
帰りは大雨となるが、雷・稲妻は夕暮れ前に止む。
この日、大殿様御下屋敷のため、南は建中寺堀端、西は建中寺西の堀通リ、東は出来町まで諸士町屋ともに残らず召し上げとなる。
それぞれの家々を点調べた上で引料(立ち退き料)が下される。
20日までに家を壊し、明け渡すよう言い渡される。
諸士の家数は39軒と。
諸士の中には多いもので引料50両ほどのものもいた。
長屋ばかりをつくっていた大久保源左衛門のような者は3両程下される。
この時、替屋敷がどこになるかはわからなかった。
その後、鉄砲打衆は建中寺前下に新しい土地を下される。
また駿河町下で多くの新しい土地が下される。
委細は略す。