名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

これぞ善政

元禄15年10月13日。
仮屋に玄蕃・宮内・縫殿・主水組が出る。
名代は渡辺飛騨守。
中日は休憩があり、経が終わり、姫君様から入仏・頓写(経典の書き写し)が行われる。
名代は高木志摩、西沢検校が平家を語る。
(中略)
香典は黄金1枚。
布施は建中寺に銀5枚。
4ヶ所の寺に2枚ずつ。
上人・西堂に1枚ずつ。
維那・声明・行者に1分2朱ずつ。
平僧に1分ずつ。
検校に1両。
これは姫君様から。
頓写の下行と出僧。
上人12人は1人3匁5分、西堂6人は1人3匁、平僧32人は1人2匁7分5厘。
建中寺の僧・小姓ならびに下々ども63人に1人1匁7分5厘。
秋山藤蔵後家に金50両が下される。
藤蔵は初め200石取りの馬廻りであったが、癩病で子もなく跡は絶えていた。
母は今年で80、娘は40、妻は60ばかりであった。
大津町に家を借りて住んでいたが、貧乏で死にそうであった。
家に伝わる権現様の御朱印1通・感状2通、敬公の御墨印1通を町奉行に差し出し、静かに死を待とうとした。
町代に頼んだが取り次いでくれなかったので、少し前直接町奉行に訴えたことが耳に入りこの如く。
金が下された上に町の輩が付き添うようにと町奉行は申し渡した。
町代は取り次がなかったので叱られる。
秋山伯耆の末裔甲州の侍であった。
藤蔵家は今の可笑軒であった。
両隣の内藤が預かっていたが、明屋敷なので畠作に良いとか、妖物屋敷と言っていた。
願う者もなく、永らく空いたままであったが今は寺となっている。