元禄8年1月11日。
朝、雨が降る。
卯半点(午前6時)に止む。
曇。
天気は良くならず、御弓、御乗初が延期される。
(馬の名が記されているが略)
(丸岡騒動)
昨年冬、本多勘左衛門、同世倅助次郎は丸岡を出て、又従弟の能瀬勘右衛門のところに潜伏していた。
近頃、江戸から檄文がやって来た。
一昨日より勘左衛門父子を勘右衛門に御預けであったが、今宵酉半刻(午後6時)に渡辺半蔵のところに移された。
足軽4、50人がやって来て乗物2丁に親子を乗せる。
大小も取り上げてあわただしく移す。
江戸からの檄の写し
本多飛騨守家来 本田源右衛門、本多刑部、木村左五太夫、平岩勘左衛門、広瀬太郎左衛門
この5人は知行所から行方をくらましたので探し出すように。
大目付前田安藝守、両町奉行、御目付松下左太夫、松野八郎兵衛が取り調べを仰せ付けられたので、指図に従うように。
(ここでは簡単に)
近年、丸岡の城主本多飛騨守を失脚させようとの動きがあった。
この本多飛騨守は狂気の人で、本多織部という家老を呼び寄せ、針を打とうとした。
織部はそれを逃れて、臣下の者にはよいが、それ他にはこんなことをしてはいけないと諌めたが、飛騨守は聞き入れず、織部を足蹴にして奥に引っ込んでしまった。
この織部は面目を失い、国元を立ち去るがまた帰参した。
そして自分の身を護るために家中の悪事を勾当を検校にして暴かせた。
その後は罪もないものに罪を着せ、ある者は追い払い、ある者には難題を押しつけ、あるいは朝に俸禄を与えると、夕には取り上げていた。
勘左衛門舅800石の又八を罪もないのに牢に入れ、食事も与えられず死なせてしまった。
また用米1000石を毎年家中に無理に貸し出し、それを高利をつけて返させ、それを蔵米としていた。
このようなことがあったので家中の者は戦々恐々とし、暇を願い出る者もあれば、願い出て去る者、運悪く捕らえられる者があった。
勘左衛門は舅も殺されていたので、孫もひどい目に合うといけないと妻と共に逃がし、自分も上下を着て番所を欺き、勘右衛門のところへやって来ていた。
飛騨守は乱心のような病ということで14年の間幽閉されていた。
しかし、一昨年それが解かれていた。
この年、越前の歩行の者と本多勘左衛門親の孫右衛門が存命中に預かった足軽が名古屋へやって来て、「能瀬勘右衛門のところへ手紙を持ち来たが、いまだ顔をあわせたことがない。どうしても顔を合わせたい。」とのことで対面を果たした。
江戸からの手紙を勘右衛門に見せると、勘右衛門は「公命であるので拒みはしないが、勘左衛門は去年の冬にこちらへ来たが、方々を徘徊し、一時たりともこの家にはいない。急いで探し出して伝えよう。」
そして内密に石川意才に頼み、佐枝平兵から天野小麦右を通して渡辺監物殿に相談した。
監物殿が言うには、その使いの者に今後は勘右衛門に会わないようにと。
一昨日、父子を勘右衛門に預け、刀は取り上げたと。
小麦右も見回りのため詰め、肝煎近所の仲間も詰めた。