元禄7年12月16日。
文左衛門は部屋の煤払いを行う。
申刻(午後4時)、渡辺源右衛門屋敷西の堀の中へ米を担いだまま倒れ込み、死んだ者がいた。
道行く人が走り寄り、引き上げて薬を飲ませたがどうしようもなかった。
この時馬子が見て言うには茂介が死んだと。
他の道行く人も茂介だと言うので、源右衛門のところから納屋裏広井村の茂介の家へ人をやって確認のために人を呼び寄せると、間違いなく茂助であった。
このため源右衛門のところから御目付内藤又左衛門へ権田与右を仲介にして知らせ、又三左衛門殿へも知らせる。
夕暮れ過ぎ、文左衛門は丸山加左のところから知らせを受け、走って死体を見に出かけると、俵にひどく打たれたようで額より出血していた。
手にも少し擦り傷があった。
源右衛門近所の者や親類が寄り集まっていた。
そうこうするうちに、やっと子の刻(午後11時)前に押の者2人がやって来て言うには、茂介の親類がやって来て死体を請け取りたいと願っている。
尤もなことであり、格段の事情がない限り、調べたうえで引き渡すべきだと又左衛門が言ってよこしたのでと帰ってしまった。
茂介の大家八右衛門と同じ借家の親類たちが受け取りにやって来た。
その人数およそ16人で、名前や職業を書き、その上に受け取りの手形も書いた。
庄屋大家親類には判を押させた。
庄屋1人が判を押し、残りの者全員は自筆で判を書いた。
調べも終わり、丑の刻(午前1時)死体を乗物にのせて引き渡した。
その後源右衛門は又左のところへ行って話をした。
この俵は調べた上でしばらく源右衛門が預かることになり、中へ入れると。
俵に書き付けがあり、紙に書いた小倉惣右衛門という札をようやく見つけ出した。
この俵のことは又左より指図がなく、先ほど押の者が来た時に源右衛門がこの俵はどうすればいいのかと問いかけていた。
押の者が言うには、しばらく預かればいいのではとさも自分の考えのように言ったが、実は又左が言い含めてよこしたようであった。
そのために又左に断らずに中へ入れて置いたと。
文左衛門は丑の刻(午前1時)過ぎに帰る。
茂介という者は歳が76で、永らく御蔵に出入りしていた者で俗に聾茂介と呼ばれていた。