名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

文左衛門の津嶋祭見物

正徳2年6月14日。
巳(午前9時)前、文左衛門は八郎右で瀬左と酒を頂く。
加右衛門を従えて津嶋へ出かける。
縫殿殿の構えから雨が降り始めるが、維摩院前で雨が止む。
その後晴れて来て西風が涼しく、とても気持ちが良かった。
甚目寺では道がとてもよく滑った。
堂の北の岡で弁当を開き、酒や食事を頂く。
ここからは一本道であった。
勝幡の堤を少し上がり、景色を楽しみ、酒を頂く。
このあたりには船が多くあったので津嶋まで乗ることにする。
1人6銭で船に乗り、未半(午後2時)頃には津嶋に到着する。
瀬左母の隣の片町兵八のところに腰を落ち着ける。
湯などをつかい、飯・汁などを出させ、鱸を買い求めてすましにして食べるととても美味かった。
200で船を借り、夕暮れ前に船に乗って天王橋のあたりで見物する。
夕暮れ前に試楽船5艘がやって来る。
橋のあたりで代官衆などがいる岸岐(岸壁)のあたりまでやって来て各3度ずつ音楽を奏でて戻る。
月明りは明るかった。
船2艘を絡めて1つとし、とても高い白張提灯を竿に刺していた。
真(シン、真柱)は5つか6つばかりで、串刺しのようにそびえていた。
その下にたくさんの提灯が湧き出ていた。
星が風が吹くたびに煌めいて揺れ動いた。
その下の屋形の軒にはいろいろと紋の入った吉野紙で張った大きな提灯があり、目を奪い驚かせた。
その他の灯光も数多く、一々書き記すことはできない。
人がたくさん乗っており、子どもは金襴今織などを着て、神楽太鼓を打つ囃方は雲のようであった。
柱を包み、幕を張っており、その見事さは言い表すこともできなかった。
最初に遠くの松の木の間から見えた様子はたとえようもなかった。
真の提灯までの高さは船から12、3間(1間は約1,8メートル)もあろうか。
見物人は蒔砂のようで、堤はさら(沙羅?)であった。
たくさんの船が出て、橋は長柄20本と弓・鉄砲で警固しており、夕暮れ前から終わるまでは人を通さなかった。
警固は足軽頭津田平次右衛門・大嶋六右衛門、代官五味弾右衛門、五十人目付小笠原与一兵衛・奥田只介であった。
船から降りて参ろうとすると、橋の向こうから1町(1町は約100メートル)あまり両側は市の店が賑々しく、向こうには弾右の紋が附いた提灯があった。
番所らしい木戸があり、銭を出さないと中に入れなかったので大麻を外で買い求めて帰る。
橋のこちらから片町の右の方に小人嶋、朝鮮人吹物からくり、浄瑠璃、十次郎芝居などがあった。
その他両側には茶屋・うんどん(うどん)、売物などの店があった。
瓜などが多く、人が多く集まっていた。
十次郎の芝居をひとつ見て旅宿へ亥(午後9時)前に帰り、酒を頂く。
八郎右は翌朝頭のところへ出るとのことで帰る。
文左衛門と瀬左はここに泊まった。
瀬左と文左衛門は月明りの中あちこちを廻り、うんどんなどを頂いた。
あちこちを歩き、子(午後11時)前に宿へ戻った。
名古屋よりは蚊が少なかったが、蚊帳が破れている上に蚤などもいて文左衛門は少しも眠れなかった。
寅刻(午前3時)過ぎて文左衛門は起き、またあちこちを歩き回り、戻って飯を頂いた。
夜が明けて亭主控えの桟敷へ出かけた。
文左衛門などが居る場所は橋のたもとに縁取りを敷いてあったのでくつろいで座った。
どちら側にもつかえるもののない良い場所であった。
普段は板橋があったが、車(山車船)の通行のために取り放ってあった。
日の出頃に高砂だんじり(車楽)、その次に山が出てきた。
時々鉄砲を放ち、その次にだんじり、その次の山は曲物から紙花を散らした。
次にだんじり、次に山、湯取みこ、次にだんじり、次の山は雁かね、次にだんじり、次の山は猩々、次にだんじり、以上の11で終わりであった。
先の車は音楽を奏で、市江のだんじりを待ってからその後を行った。
山の高さは9間あまりもあった。
いずれにも蛇がつき、また魚がはねるのもあった。
旗振夫婦もあった。
だんじりにはいずれも高砂のようで(人形)2人ずつ乗っていた。
檀風のような面を付けて、羽団(扇)を持つものもあった。
老人もあったが、これはそれほど高くなかった。
人形の下の屋形は柱を金襴で包み、子どもは金襴などを着て、囃方は上下を着て笛・太鼓・鼓であった。
いずれも衣服を多くかけてあった。
山にもかけていたがこれは少なかった。
高砂の次の山の最初は堀田喜大夫と幕にあった。
幕の紋はいずれも丸に瓜であった。
その他の紋は木売りなどであった。
山もだんじりも船2艘を絡めたものであった。
文左衛門の目の前を通ったのでじっくりと見物した。
山は5つともやがて戻って行った。
初めの順でだんじりはしばらく間をあけ、神楽などが行われた。
しばらくして市江のだんじり、その次から先ほどの6つがいずれも戻って行った。
文左衛門が見たところでは、子供たちも下り、作花を人々に取らせ、山の蛇も切って人に与えていた。
祭が終わるとそのまま見物も立ち去り、やらい(矢来、柵)・桟敷なども取り壊した。
帰りまでには見るものはたいてい無くなった。
文左衛門が最初居た場所もごみでいられなくなったので、兵八の2階から見物した。
山の囃方は鐘・太鼓・笛で、1晩中囃していた。
辰半(午前8時)に終了となった。
持参の米で飯に炊き、弁当に入れた。
西北で雲が立ち込め、雨の気配があったので辰半(午前8時)に出発した。
昨夜の宿に200文を遣わし、この日は瀬左と2人で400文遣わしたのは桟敷代の心付けであった。
勝幡から段々と天気が良くなり快晴となる。
甚目寺で弁当と酒を頂く。
志賀へと廻り、午半(午後0時)過ぎに帰る。
文左衛門1人の費用は520文であった。

免番衆から麦の値段は1石3斗5升で申し付けると云々。