名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

渡辺飛騨守の伯父兵庫はフィクサー

宝永5年4月29日。
辰刻(午前7時)から文左衛門は藤入と共に大森寺へ出かける。
藤入新田で湯漬け・酒なども頂いていると星野勘八もやって来た。
一緒に巳半(午前10時)大森寺へ到着する。
酒などを頂くうちに冷麦などが出る。
各ひと眠りする。
申(午後3時)過ぎ膳が出たので、また酒を楽しむ。
戌(午後7時)前に帰宅する。

未(午後1時)過ぎ、中根文左衛門裏の9尺(1尺は約30センチ)に3間(1間は約1、8メートル)隠居屋が焼失する。
先日の出火の後遠慮となっていたが、昨日頃からまた出仕していてこの如く。
2、3日前にも火事を出しそうになっていた。
近所には隠しようもなく、家内に火をつけた者がいると思われた。

渡辺飛騨守は先月27日から気分がすぐれないと云々。
近頃、江戸の願いもあり、江戸へ向かおうとしていたと思われた。
気分がすぐれないのは本当の話であった。
少し前、大膳姉の飛騨守次女と甲斐の息子右衛門への縁組のことを江戸へ申し遣わされたところ、飛州伯父の兵庫などから遅くはないと返事があった。
兵庫などは仲間を集め、自分より上手(ウワテ)にいた者全員の威を削った。
当時1万石以上で全員が尾張にいるものであった。

少し前、外岡清兵衛の子のところに森嶋三右衛門の姉久米という者を妻に遣わすはずであった。
しかし、清兵衛の子は召仕の女を連れて逐電してしまった。
桑名で尋ねだし帰ったと云々。
その後の仰せ渡しには、清兵衛の子は暇ももらわずに伊勢へ参詣したと。
清兵衛のことは国元での決まりをよくわかっていなかったためか。
今後はよくよく気をつけるようにとのことで済ませる。

近頃、濃州金山の真言坊主行深という者が尾張へやって来た。
碁に優れており、伊加井孫兵衛に2つ(黒石を2つ置くこと、ハンデ)で勝負して勝ち、尾花新平にも2つで5番続けて勝った。
内藤与右・大沢惣兵衛にたがい先(互いが先手になる子と)で4、5番続けて勝った。
柿沼甚左衛門にはたがい先で勝負して負けた。
初めは秀弥と云々。
山伏で14歳の時尾張に初めてやって来ており、その時から石2つあがったと。