名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

渡辺飛騨守にとってはありがたいこと

宝永2年1月30日。
この日で能、芝居が終わる。
巾下金ひご口の堀に京町の革屋が落ちて死んでいる。
在所の桂村に行き、帰りに泥酔して落ちたと。
廻文。
先年、公儀では鷹を放たれたので鷹場を差し上げ、その上瑞竜院様・泰心院様も鷹を用いない申し合わせ、そのことを老中へも話された。
殿様はいまだ名古屋へ戻られていないので、もちろん鷹について指図はない。
この通りではあるが、領内で鷹を所持する者もいると聞き及んでいる。
上の者でも鷹を所持しないので、老中などは鷹など所持するものではないとのお考えである。
しかし、他国に領内で鷹を用いていると知られては、仰せ付けをおろそかにしていると思われてしまう。
領内において若鷹を所持する者があれば何者であろうと留め置いて名、苗字を聞き、百姓や蔵入給地は国奉行に、その他は関係する役所にすぐに申し上げるように。
もしそのような輩がいるのを見逃す、聞き逃す、隠し置くなどして後で知れるようなことがあれば鷹を所持する者はもちろん、見逃し、聞き逃した者も落度があると。
また領内で鉄砲で殺生することは所によっては免許された輩もある。
免許の者以外は鉄砲での殺生はしてはならないとのお考えである。
前々から鉄砲免許の輩はどこからの免許あるのか側同心頭に申し届けるように。
以後殺生のために鉄砲を持ち歩くものを見たならば、誰であろうと名、苗字を聞いて届け、関係するところにすぐに申し出るように。
もしそのような者を見逃し、聞き逃し、隠し置いたことが後で知れるようであれば落度であるとお言いつけである。
以上。
正月。
今月15日、渡辺飛騨守へ松山新田を返し下された際の書付。
一筆申し入れる。
貴殿の知行尾州5000石松山のこと。
元祖同姓半蔵が権現様存命中に源敬様に附属(幕臣から尾張藩に附属された)の際、三州5000石余りの知行にある松山と同様に下され、この松山をだんだん新田としていかれた。
しかし、財政が厳しくなり、以前家中の輩が節約のため、新田ならびに松山を召し上げた際にこの新田も松山とともに召し上げ、今に至るまでそのままになっていた。
このことがお耳に入り、権現様存命中に三州知行所と同様に源敬様から下された松山であるので格別とのものであるとのお考えである。
このためこの尾州5000石にある新田ならびに松山も元のように返し下される旨とのお考えである。
その意をくむように。
恐惶謹言。
正月15日 中条主水 織田宮内 鈴木伊与守。
渡辺飛騨守殿。