名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

主人に義理立てして自分を追い込んでしまった

元禄9年7月21日。
矢田河原で鉄砲の惣打ちが行われる。
井野口太郎左衛門が御出ましになる。
目付山崎十左衛門、五十人目付小川六右衛門も同じく矢田へ出かける。
文左衛門も石川瀬左衛門と昼頃に矢田へ出かけるが、既に惣打ちは終わっていた。
ここで横川長右に出会い、ふたりで召仕を待つことにした
未刻(午後1時)過ぎ、矢田から勝川へ行き、鮎を獲る。
文左衛門は鮎1匹、鮠9匹を捕り、戌刻(午後7時)に帰る。
服部十郎右衛門若党と女の首が獄門となる。
十郎右衛門は大殿様の御代官であり、十郎右衛門には永らく取り立てた手代がいた。
昨年、十郎右内儀がこの手代に賄の女を嫁がせた。
しかし、手代との仲は女が今まで通り奉公していたので、いまだに会い交わることはなかった。
その後、同じ主人に仕える若党がこの女と通じてしまった。
手代は時々この様子を見かけていたが、主人の恩を思い知らぬふりをしていた。
あるいは逢引の際は外から戸に鎖がしてあり、疑心が生じたが止めることはしなかった。
そのためかえって疑心が深まっていった。
この夜、ついに怒りがおさまらなくなり、女を自分の部屋に招いて刺し殺し、若党にも切りつけた。
その際、若党は中間部屋にいたので、僕らが驚いて大騒ぎとなった。
すぐに手代は捕らえられた。
手代は詳しく事情を話し、そして奉行所へ報告したと云々。
言い渡されたのは、手代は初めの通り仕えるとも、暇を遣わされるとも。
それは十郎右衛門に任された。
ふたりの死骸は首獄門にかかるまで請人にも渡さないようにとのことであった。
この女と若党を切り殺したのは15日の夜であった。
7月14日とも。