名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2023-11-01から1ヶ月間の記事一覧

大須は大賑わい

宝永3年2月15日。昼から文左衛門は武兵へ出かける。頼母子のくじが行われる。文左衛門は頼まれた1口1両2分を出す。夕飯を食べ、日が暮れて帰る。松浦市左衛門・源右・友節・吉田伴太夫も来ていた。昼頃火事と言うが、嘘であった。間嶋朱殿・浅田左源…

文左衛門、単なる野次馬か

宝永3年2月14日。未(午後1時)過ぎ、巾下で火事というが嘘であった。酉半(午後6時)、新町下隼人正下屋敷加嶋伴蔵から火が出て、向山弥右衛門と2軒が消失する。文左衛門は彦兵の門まで出かける

円六はあの詐欺師

宝永3年2月13日。円六の妻たのが牢に入る。伊勢屋久四郎も牢に入る。妻子は預けられる。

これはよくあること

宝永3年2月12日。昨日の日付の簡略の廻文が来る。

かなり火が経ってからのお調べ

宝永3年2月11日。最初は津守様(松平義行)の小姓を勤め、今は浪人の馬廻組近藤武兵衛孫政之右衛門に尋ねたいことがあるとのことで、武兵衛を連れて評定所東屋敷に入る。昨年9月、大須で刀を落としたのかこの政之右衛門と。昨年冬に暇を出していた。彼…

とやかく言う前に手伝わないと

宝永2年2月10日。未(午後1時)過ぎ、駿河町下から火が出る。火元は小普請組上野作兵衛控の借家に住むすぶた権左衛門という古かね(金)屋であった。2町(1町は約109メートル)ほど先まで東へ火の粉が飛んでいく。両側6,7町あまりが残らず消失…

これも文左衛門は獲得できなかったか

宝永2年2月9日。昼から源太左のところへ出かける。いつもの頼母子会で瀬左・曽右と共に。夕暮れに帰る。

今ならパワハラで大騒ぎ

宝永3年2月3日。近頃、荒川次郎九郎が乱心との噂がある。近習の男女を度々殴りつけると。妻は近江守のところへ戻る。近頃、建中寺行者通閑に申懸(論争を挑んだり、言いがかりをつける)をした者が所を追い払われる。

冬にこの仕打ちはあまりでは

宝永3年2月2日。蔵の米の値段が決まる。買留(藩による買い上げ)は2分、1両で9斗4升。昼過ぎ、一色伝右衛門横町で男が女の服を下帯まで剥ぎ取り、逃げ去る。この女は惣嫁(売春婦)で木綿を盗んだからと云々。

宝永3年2月の天気です

宝永3年2月3日。薄曇。未半(午後2時)から雨が降る。時に小降りとなる。夜も雨が降る。深夜に止む。宝永3年2月6日。申(午後3時)から曇る。その後、雨が降る。夜になって雨が降る。深夜に止む。晴れて風が吹く。宝永3年2月7日。晴。宝永3年2…

大がかりな詐欺事件です

宝永3年1月30日。近頃、美濃の偽婦のことで町人が多く預けられる。尾張藩の領分だという濃州ひたち(日立)村に住む円六は百姓のところへ八三郎様局の娘といって女を1人妻に遣わした。実はこの女は馬廻近藤武兵衛の孫で、田辺善太夫の娘であった。飯田…

勉強のためですかね

宝永3年1月29日。昼前から文左衛門は源太左へ行く。両段集(剣術指南書)の絵を写す。夜、そば切などが出て、戌(午後7時)過ぎに帰る。

放火ってことか

宝永3月1月24日。子刻(午後11時)過ぎ、日置はたご(旅籠)町で民家3軒が消失する。法蔵寺地蔵堂へも2度火がつけられるが、消し止める。

浅知恵は通用しない

宝永3年1月22日。喜子進様台所人正木久左衛門が評定所東に入る。この者は行いが良くない上、はなはだ貧乏であった。以前十一屋の隣大黒屋の妻と関係を持っていた。大黒屋は気づいていたが知らないふりをして女房を離別し、道具も返さなかった。この女は…

これは確かにおかしいです

宝永3年1月21日。寺尾頼母は病気が回復し、今年初めて長髪で老中のところへ出かける。縫殿殿・主水殿で折り返し、口上を2度言い置いて戻り、また病気のために引き込む。酒に酔ってのことか乱心気味だったのか。

そりゃ逃げれないわ

宝永3年1月13日。国府宮の儺追(はだか祭)取が小田井の民家に押し入り、捕まる。その父が怒って刃を手にして互いに争い、互いに傷つく。午2刻(午前11時半前)、法花寺町通り西側から火が出る。乾風(北西)の風が強く吹いており、妙蓮寺などそのほ…

正月早々火事など出してはいけない

宝永3年1月11日。戌(午後7時)前、西蓮寺の寺内で火が燃え上がろうとするが、すぐに消し止める。

屋根を葺くにもいろいろと決まりがあるものだ

宝永3年1月7日。文左衛門は屋根の棟を葺くため中萱212束を1分2朱で買い求める。車賃は150文。11日に屋根ふき2人で葺く。80束ほど萱が余る。重ねるところはだんとり結び、ほこ(鉾)は蕨の縄で必ず行うべきである。加藤平左の本屋に32文で…

多分この文での可仕は反語でしょうね

宝永3年1月3日。切小判(目方不足で通用しなくなった小判)を流通させないようにとの廻文がある。

宝永3年1月の天気です

宝永3年1月1日。晴。昼過ぎから薄曇。夕暮れからわずかに雨が降り、夜も降り続く。宝永3年1月2日。雨が降る。巳(午前9時)から止む。曇。宝永3年1月3日。晴。明け方、少しの間雨が降る。宝永3年1月6日。風が吹く。夕暮れ、雪が降るが、その後…

この後この屋敷はどうなるのでしょうか

宝永2年12月28日。松寿院様上屋敷ならびに日置の屋敷ともに屋敷奉行が請け取る。

主がいなくなれば仕方がない

宝永2年12月29日。近頃(25日のこと)、松寿院様衆にそれぞれ仰せ付けられる。侍は全員小普請になる。歩行目付・歩行以下は残らず暇を下される。医者竹田三益200石、針立渡辺益堅25人扶持ともに表(表番)へ仰せ付けられる。賄頭小池甚六30石…

正遷宮は修理などの終わった本殿に戻ることです

宝永2年12月26日。夜、熱田ならびに八劔宮の正遷宮が行われる。

穏便ですからね、ちなみに節分は年4回あります

宝永2年12月21日。節分。大豆を小声で投げる。乞食もいつもの厄払の祝文を唱えず。

なぜかジーンとくる話

宝永2年12月16日。少し前、一位様の屋敷で狐が狼藉をはたらいていた。このため捕まえることを命じて、女狐1匹を捕まえた。その夜、老人がやって来て女狐を守り、その場を離れなかった。子細を問いかけるとこう答えた。私はこの狐の夫である。生まれは…

年末は何かと入用で

宝永2年12月13日。昼から文左衛門宅で頼母子会が行われる。文左衛門は役料手形8斗7升8合で売払う。5両1分9勺6分となる。

不幸な1年だったってこと

宝永2年12月11日。岩之丞様が亡くなられたので24日まで穏便との廻文がくる。今年はこれで7度目の穏便である。

面倒見のいい友だちだ

宝永2年12月10日。少し前、権田五左衛門が結采(結納)の祝儀を建部四郎左衛門のところに遣わした。その後山崎藤兵衛・相原弁左衛門・雑賀伴六もやって来て酒を飲んだ。帰る時に2人がはなはだ酔っていたので藤兵衛はひそかに後をついていった。2人は…

さあ、年末に向けて稼ぎましょう

宝永2年12月3日。巳半(午前10時)過ぎ、市郎左へ文左衛門は出かける。頼母子は加兵・半九が得る。

これは何をしに行ったのかよくわからない、穀は穀物に関することだと思うのですが

宝永2年12月2日。馬廻内藤勘之丞が江戸へ出発する。金ならびに穀印のため。例のごとく足軽6人が随う。