名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

屋敷替えの際、今の屋敷より条件が悪いと金が出たようです

宝永7年10月10日。
巡見衆は日の出頃にやって来て、八ケ寺の見分を行う。
昨年は性高院だけに入られたが、今度は全員八ケ寺を検分する。
嶋沢仁大夫・吉原甚大夫・高木十右衛門・町奉行両人・同心十人衆などが出向く。
縫殿殿・靭負殿は性高院へ出向かれる。
ここで巡見衆それぞれに茶菓子などが出るが、5人分しかなく、縫殿殿・靭負殿の分がなかったので声をかけたが出てこなかった。
このため五人衆も手をつけられなかった。
はなはだ不首尾であった。
辰半(午前8時)過ぎに本町を通られた。
代官横地仁兵衛に道々話されたのは、尾張領分に指図はないが、話の通りにするようにと。
橘町懸所の西、巾下志水氏下屋敷の角に升形のように土居の閭門(りょもん、郷の入口の門)が出来る予定と云々。
熱田にも尾頭路の東、築出し磨屋か茶屋の西などに土居の閭門が出来ると云々。
古渡りの一里塚の前にも塀などがあって見にくかった。
これも塀などを取り除いてすぐに一里塚と見えるようにする予定と云々。

佐藤清太夫は願いの通り拝領する屋敷が古屋敷にとなり、その買居(かいすわり)金(売買金)を払うが、10両余りを戻される。
これは飛騨守へあの手この手を使っての結果で、新らたな例となった。