名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

ここまで切腹の様子を詳細に記されと

宝永3年9月12日。
夜、市川武兵衛が江戸角筈の兵部屋敷で自殺して死ぬ。
年は34。
おととい11日巳時(午前9時)、兵部江戸へ到着した。
13日に殿様へ御目見の予定で、この日武兵衛は御殿に出かけていろいろなことを取り決めて帰る。
夜は春台院へ出かけて帰り、召仕には明日は未明に供に出るので、終えておきたい仕事の書付を確認するので勝手に2階へ来ないようにと云々。
布団の上で腹を十文字にうまく切っていた。
たての疵は6寸(1寸は約3センチ)ばかり、肱(のど)を横から貫き、前へと切り離し、腸をつかむためか左の手を腹の中へ差し込んでいた。
無頼(苦しそうなさま)の自害であった。
差し替えた脇差で切ってあった。
書置はなかった。
翌日、兵部が出かけようとすると、介添えの武兵がいないので呼びに遣わすとこの如く。
召仕などが翌朝見つけ出す。
夜いつ死んだのかもわからず。
14日に小把団右衛門がやって来て死骸を請け取る。
豊嶋九太夫が立ち合い、この夜深川浄土宗雲かう院寺内養寿院に葬る。
号は玄達利元。
兵部は江戸へ着く日を1日間違えて市買(谷)で用人に挨拶したと。
このため人はそのことを笑ったと。
その他どんな恨みがあったのかわからずと。
近頃聞いたこと。
和泉屋十二郎は美形抜群だと云々。
飛騨山にかかわる七兵衛という大金持ちの町人はこの十二郎を愛していた。
七兵衛は一の鳥居のあたりに住み、居宅・庭石など人目を驚かすようなものだと云々。
盆前にも金100両を包みのまま十二郎に渡していた。
十二郎の母はてこ(下働き)の者の娘であった。
松平十蔵がこの女と関係を持ち、そして十三郎(十二郎の誤りか?)を産んでいた。
親類は母の身分が卑しく、それでは体裁が悪いと金子を添えて十三郎の元へと遣わしていた。
母は谷平を産んで死んでしまう。