名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

中々の攻防戦

元禄8年1月17日。
昼から曇る。
申刻(午後3時)、越前から馬廻りの者3人がやって来て、平岩勘左衛門父子を受取りたいと言う。
雑兵20人ばかりがどやどやと勘右衛門の門前にあふれる。
勘右衛門は大いに気が動転し、留守と伝えるが、帰るのを待つと言って立ち去らないので、裏から田村新八を呼び、大田元右衛門に助けを求める。
元右衛門がやって来て、勘右衛門はいつ帰ってくるかわからないので、その間は自分の家で待ってくれと座敷に入れる。
既に夜中であったが帰りはしなかった。
越前の者が言うには、「長居は無礼ではあるが、国から状(手紙)もあり、状にはすぐに勘右衛門に状を渡して帰って来るようにとある。」
元右衛門が言うには、「その状をこちらへ渡してもらえれば持って行き、勘右衛門を急いで呼び寄せる。」
越前の者は、一度は手紙を渡すことをためらうが、その後渡す。
この状は家老からの状であった。
終には勘右衛門と対面し、「是非とも受け取りたい。」と言う。
勘右衛門が言うには、「今は自分の家にはいないので、頭と相談してどうするか決める。」
越前の者が言うには、「前回もやって来たが成果がなかった。今度は是非とも受け取らなければ面目が立たない。」
加藤作之右衛門が言うには、「尾張へやって来ておいて面目が立たないなど言われても困る。立たないならば立たないまでのこと。」
この間のやり取りは省略する。
その後、越前の者どもは帰り、町屋を借りてそこに住む。
この度、能瀬勘右衛門は動揺し過ぎて事をうまく運べなかった。
広井・山口でこのことを知らせた。