名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

自由恋愛は難しい時代だ

元禄7年2月11日。
内藤所右衛門の娘を成敗する。
内藤所右衛門隣の堀道の隣に草履取り喜八という者が住んでいた。
元は下条庄右衛門のところで奉公していた。
所右衛門の娘がこの者を見て心動かされ、終には手紙を送った。
すると喜八が堀を越え、関係を結んでしまった。
この年の正月初め、奉公先を飛び出し、あちこち徘徊していた。
西枇杷島の郷には喜八の姨(おば)が住んでおり、夫が飴を練って生計を立てていた。
子を亡くしたことをいまだ嘆いていた。
喜八がブラブラしているのを幸いと、養子にして女と一緒に呼び寄せ、住まわせていた。
姨が所右衛門のところへ行って女を乞うと、所右衛門は了承してうなずいた。
喜八が逃げ出す以前に、姨が貰いに行ったとも。
詳しいことはわからず。
これがが露見し、世間の噂は芳しくなかった。
そのため所右衛門は親類と話し合い、娘を取り返そうと思った。
頭にこのことが知れると、娘1人だけをお前が連れてくるのは難しい。
こちらから召し捕ると、この日国奉行の足軽が喜八のいる庵にどっと押し込み縄をかけた。
この際、清州で商いをする所右衛門の弟権之右衛門がここに居合わせ、狼藉者と騒いだところを叩き倒された。
捕らえられるとも。
この夜2人とも牢屋の前で成敗される。
男19とも21とも。
女は19とも17とも。
最後はいたましいことであったと。
女が話してくれたところでは、柳の薬師へ参詣し、初めてこの男に手を握られ、その時から情が通じてこうなってしまったと。
この話は色々と噂があり、その中から疑わしいものは除き正しいものだけを取り上げたもである。
ここでは文左衛門が要点を取りまとめた。