名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2023-12-01から1ヶ月間の記事一覧

これって弥五右は得したってこと

宝永3年9月21日。屋敷替えを言いつけられる。高力七左衛門ところへ稲葉惣左衛門が入る。惣左衛門の家は石川兵庫の屋敷となる。大橋新之助は野崎鎌山の差し出した屋敷へ入る。新之介のところへは堀田弥五右が入る。弥五右のところへ高力七左衛門が入る。…

朝早くからご苦労様です

宝永3年9月17日。明け方、家を出て漁に出かける。霜がおりて地面は真っ白。地蔵池で網を打ち、未(午後1時)前に帰り、彦兵殿と甚右へ祝義に出かける。帰ってから今度は金谷坊へ出かける。酉半(午後5時)帰る。鮠を多く捕る。

親戚が勝手に首を突っ込んじゃあイカン

宝永3年9月15日。栗田六之右衛門・蜷川善左衛門が金15両ずつ盗まれる。近頃、春日井郡阿原村の百姓が日待(一種の宗教行事)で浄瑠璃を語っていた。ひとりが酔っ払って百姓の頭を叩き、その後つかみ合いとなった。翌日、百姓は畠で頭を叩いた男の頭を…

本当に良い身分だなあ

宝永3年9月13日。文左衛門は昼過ぎからいつもの会で平次左へ出かける。夜は名月を鑑賞する。酒に肴と気分が良い。子刻(午後11時)前、源太左・瀬左・平次左と文左衛門は月に見ながら片場本町を通って帰る。

あーあ、また怠惰な生活

宝永3年9月13日。辰半(午前8時)過ぎから文左衛門は弥左へ出かける。そこへ治左もやって来る。道具代20両のうち10両を持参する。酒などを頂く。昼半(午後0時)過ぎから地蔵池へ網打ちに出かける。戌(午後7時)過ぎに帰る。

ここまで切腹の様子を詳細に記されと

宝永3年9月12日。夜、市川武兵衛が江戸角筈の兵部屋敷で自殺して死ぬ。年は34。おととい11日巳時(午前9時)、兵部江戸へ到着した。13日に殿様へ御目見の予定で、この日武兵衛は御殿に出かけていろいろなことを取り決めて帰る。夜は春台院へ出か…

不祥事2件の処分

宝永3年9月11日。昼頃、成瀬修理宅へ八三郎様用達矢嶋伴右衛門・中山文左衛門を呼びつける。日ごろから勤務態度が良くないとのことで、今の役を取り上げ、小普請役を仰せ付けられる。万阿弥の子で抱守田中浅右衛門が改易となる。5ヶ国の出入り禁止で、…

今の働き改革の先取り

宝永3年9月9日。昼頃から文左衛門は瀬左・平左と地蔵池へ網打ちに出かける。道すがら酒を飲み楽しむ。戌(午後7時)前に帰り、また瀬左へでかける。どじょう1升(1升は1、8リットル)を買い求め、3人で食べる。亥(午後9時)過ぎに帰る。

藩からの材木売り出し

宝永3年9月8日。払木大小75丁を瓦と一緒に治兵衛に頼んであり、この日治兵衛のところから引き取る。治兵衛までの届賃は車2台で640文。

いくら季節が良いとはいえなあ

宝永3年9月6日、昼半(午後0時)頃から大曽根より金谷坊へ文左衛門は網打ちに出かける。日が暮れて帰る。

少し前にも相撲がありましたよ

宝永3年9月5日。近頃、梶嶋の勧進相撲を大曽根の者が邪魔をすると。

消火活動の邪魔をしたのか、困った奴だ

宝永3年9月3日。不意に老中、国奉行が御屋形へ出かけ、休所へ向かわれ、内密に面々支宅(度)(物事の準備)がある。夕暮れ過ぎて退出する。6日も同様。大井での公事のことかと。未1刻(午後1時過ぎ)、萱葉池の塩硝場で合せ直し(配合)した塩硝を1…

魚を獲るにはいい季節かも

宝永3年9月2日。未(午後1時)から文左衛門は金谷坊に漁に行く。この日、川村で相撲が行われると人が多く集まる。申(午後3時)から始まると。

宝永3年9月の天気です

宝永3年9月1日。雨が少し降る。宝永3年9月2日。朝、霧が出る。その後、晴れる。宝永3年9月3日。晴。宝永3年9月11日。時々、曇る。巳(午前9時)過ぎ、少し雨が降る。夕暮れ前、雨がひと降りして止む。夜、晴れる。西風が家を揺らす。宝永3年…

時代劇に出てきそう

宝永3年8月30日。巳(午前9時)前から文左衛門は源太左・曽右・瀬左・平次左とともに250文ずつ金を出して伊勝山に出かける。宗寿のところで1日中酒を頂く。(中略)戌刻(午後7時)に帰宅する。近頃、竹腰兵部が知行所大牧(ママ)兵内のところへ…

様物の後で弁当を食う気が知れない

宝永3年8月29日。辰半(午前8時)から文左衛門は曽右と源太左へ出かける。瀬左なども居合わせる。そこからためしもの場へ見物に出かける。胴が4つあり、国奉行・町奉行が拝領する。猪谷唯四郎がこれを切る。申刻(午後3時)過ぎに終わる。それから通…

宝永3年8月26日。老中宅で国奉行・町奉行を並ばせ叱られ、書付も出す。大意は近年何事においても不注意がないようとのことであるので、永らく江戸に殿がおられるので、ますます気を引き締めるように。詮議などかかる者も多いのでますます慎むように。配…

確かに隼人正は軽率そう

宝永3年8月25日。伊与殿の使いで隼人正が叱られる。少し前に追鳥狩と称しながら、鹿などを狩ったためと云々。隼人正は軽率であった。この春にも新町下の屋敷で自ら生胴を切る。世間には打ち首の者を拝領したので自分のところで首を打ち、様し物にしたと…

一体何を話されたのか

宝永3年8月27日。辰半(午前8時)から文左衛門は瀬左・曽右と源太左へ出かける。酒を頂き、夕飯・夜食までも頂く。戌(午後7時)頃に帰る。この日申(午後3時)頃、都筑弥兵衛宅へ友弥が出向くようにと手紙が来ていた。その様子を聞くために出かけて…

あー、また遊び癖が始まってる

宝永3年8月24日。昼過ぎから小一が文左衛門のところにやって来る。夕飯を出し、その後連れ立って大曽根杁から志賀へ網打ちに出かけ、夕暮れに帰る。

これも普峯院様の法事なんですかね

宝永3年8月23日。名代は志水甲斐。津守様(松平義行)から長屋紋右衛門、奥様から渡辺庄蔵。出雲守様(松平義昌)から井上七郎兵衛、奥様から(欠字)。青山奥様から新番岡野清治郎。

義直の長女京姫のことです

宝永3年8月22日。普峯院様の33回忌の法事が行われる。27日のことで政秀寺で行われ、僧50人が出る。名代は中条主水殿、馳走奉行は成瀬内膳・高木主計・星野七右衛門、足軽頭後藤彦太夫・青山儀左衛門。

遠嶋とか追放とか、はたまた許されるとか大騒ぎ

宝永3年8月21日。遠嶋・追放の輩が許されて召し返され、扶持・切米下される。200俵ずつ、小出壱岐守、中根主税、飯田次郎右衛門。10人扶持、笹山彦之丞。50俵、高城六左衛門。20俵ずつ、野村盛安、木村玄竹。遠嶋 見分間違のため御徒目付北条平…

次は狂言ですか

宝永3年8月17日。大須で十三郎の狂言が行われる。演目は八百屋お七かたり。夕暮れから政右と佐藤幾右を呼び、亥(午後9時)過ぎに帰る。

連日のようにお遊び

宝永3年8月15日。巳(午前9時)過ぎから加兵とともに味鋺へ魚釣りに出かける。申(午後3時)過ぎに瀬左もやって来る。酒や肴を思うまま楽しむ。夕暮れ後、安井の堤から山田・矢田へ向かう。道すがら右に松並木、左に白砂、流水に光が踊り、波が砕け竹…

働かずに一体何をしているのか

宝永3年8月12日。文左衛門は昼前から加兵へ出かけて酒などを頂くうちに仁右衛門・安兵衛がやって来る。網のいは(網の重り)を鋳る。文左衛門も夕飯を頂く。そこへ又十郎もやって来る。申(午後3時)前から漁を見物に行く。味鋺から勝川へと出かける。…

急な大雨とは、こりゃ大変

宝永3年8月11日。近頃、鍛冶屋町下大池の花火がにぎわい、大曽根あたりもこれにおされ、大方は皆鍛冶屋町へ出かける。大池の堤の上では周りを囲い、1寸の余地もないほど見物人があふれる。男女・老少・貴賤が集まり、弁当・毛氈を持ってたくさんの人が…

藁葺きとか板葺きは手入れが大変

宝永3年8月9日。この日文左衛門は板返し(板葺きの屋根を葺き替える)を行う。葺き師を雇い、長屋のほかは残らず板返しを行う。2分(1分は約3ミリ)ほどの板を買う。

夏らしい光景

宝永3年8月8日。申(午後3時)前から文左衛門は瀬左と源太左へ行って稽古をし、夜話をする。近頃、源太左の南の大池で花火や流星(からくり花火)が何度も行われる。この夜も座って流星を見る。月に向かって詩を詠み、酒を呑みながら楽しむ。亥(午後9…

潔く退く

宝永3年8月6日。竹腰信濃守が到仕(官職を退き引退する)、家督は相違なく息子民部に下される。大寄合の席で仰せ付けられる。信濃守は帯刀と号する。