名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

この日は色ごとの話が多い

宝永2年1月2日。
昨年、山本道伝は江戸へ下らず、その後も参上しなかった。
これは本寿院様が度々艶書(恋文)を送られたため。
昨年も堕胎を行っていた。
以前から山本八郎左衛門姉のびくに(比丘尼)ははなはだ淫乱であった。
去年も栄国寺の住持に艶書を送っていた。
住持は怒って講談でその名前などを話しており、その上、その手紙を引き裂いた。
昨年冬、田辺太左衛門・荒川治右衛門らに触流しから内々の話がなった。
当時少将様方でも差し控えていたことであった。
各が隼人殿のところへ昼夜詰めているのはいかがなものか。
稽古がないのであれば時々でいいのでないかと云々。
昨年冬、毛利内記と加嶋万右衛門とで取り合い(奪い合い)があった。
万右衛門は毛利に金子を貸していた。
返さないので証文にある500石ほどの新田を差し押さえ、米を万右衛門の納めさせようとすると、毛利方では催促人を叱りつけて米を1粒も寄こさなかった。
請人田辺・石川は様々調整を図った。
飛騨守殿も尋ねられ、それであるならばその新田の半分を当分の間取り上げればとの考えであったが、半分では納得できないと万右衛門は応じなかった。