名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

乱心だと都合が悪いのか

元禄17年2月15日。
江戸へ下る五十人桜井源介(助)が箱根橿木坂で乱心し、脇差で喉を貫く。
この時、同列(同格)が前後におり、これを聞いて駆けつける間に深い谷に落ちてしまう。
同列10人ばかりの中で小頭村上武兵衛が死骸を見ようとするが、篠(竹)が深く生い茂り、岩がそびえ、道の険しさは言葉で言い表すこともできないほどであった。
このため畑(端)の茶屋の者に金を与えて案内させ、何とか谷の底へ皆で降りていくと肉が裂け、骨が砕け、血だらけとなって死んでいた。
刃の傷がどことは言い難かった。
脇差は途中に落ちており、すぐに2ヶ所に印をし、死骸を引き上げて江戸へと知らせる。
江戸から五十人目付などの検分の者はやって来ず、畑で源介を埋葬する。
江戸で竹腰信濃守は若さを過信してかしの(橿)木坂のような険しいところで馬に乗り、刀が鞘から抜け落ち、落馬して死んだのだから乱心ではないと言う。
源介は桜井市左衛門の養子で実父は永井金左衛門、21歳。
東の方で光物が見えると、相応寺下の東の原、さらには鍛治屋町、巾下などまで毎夜人が多く集まり、弁当・敷物・提灯などを持ち、槍など持った者まで見られると。
坂上の鈴木仁左衛門の門外からも見えると人が多く集まる。