名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

品行方正の言いつけは殿の出発にあたっての注意事項だったのか

元禄12年3月5日。
公は尾府を出立する。
覚。
捨子は禁止されているので、わけのある者はそのことを関係するところへ申し出るように前々から言いつけているが、軽き者(身分の低い者)は子を育てることができず、捨子を行っていると聞き及んでいる。
これははなはだ不届きである。
今後はこのことをかたく守るように。
捨子に限らず人の道に背くことをする者があれば、必ず詮議し届け出るように。
捨子などはもちろん禁止であるが、もしあった場合には、その場の者は粗末に扱わず、不憫と思い育てるようにとお考えであるので、そのことをよく理解するように。
以上。
卯3月。
御供立の御供番沖(奥)津喜右衛門が乱心する。江尻の泊まりで番をはずれ、宿へ帰って横になり、皆を呼んで言い始める。
3若党2人が自分を切ろうとしている。
皆はそんなことはないと言って次の間へ出る。
その後、喜右衛門は裏へ出て、垣をくぐり泥まみれになりながら曲淵八右衛門の宿へと入る。
乱心といえども箱根の関を越えていなかったので、相役林権右衛門とともに先に江戸へ行くように命じる。
箱根までは大小もそのままと普段通りであった。
そのうち刀を抜き、他国の者を追手だと鑓を携え歯向かうなど権右衛門を困らせるのを何とかなだめすかす。
箱根を越えてからは駕籠に網をかける。