文政2年6月12日。
昼8半(午後3時)頃、大地震がある。
木々の蝉が鳴き止み、瓦疵(かわらひさし)などは多く落ち、水溜水壁などの水は揺れ出て、小便瓶の小便も揺り出て、東寺町常徳寺の門は倒れる。
(朱書)
「石塔ならびに石灯籠は多く倒れる。
熱田の宮地のみ地震はなく、参詣の人は気づかなかった。
これは不思議なことであった。」
(朱書)
「西懸所(西別院)矢来門は南の方の馬繋ぎへと倒れる。
若宮北築地(ついじ・塀)が大いに崩れてしまう。
在(町はずれ)では大きな松が地へめり込み、1丈(1丈は約3メートル)ほど出ているところもあった。
地が裂け、泥が吹き出し、どこが田畑かもわからなくなったところもあった。
東寺町常徳寺の門が崩れ、八事の塔は壊れ、七寺の塔はアウチ(棟?)がくるくる廻るもどうにか無事であった。
茶屋の者はとても驚いたと。
桜天神の時の鐘が落ちたとのことだったがこれは嘘であった。」
これほどの地震は170年ぶりだとか。
昨年本町大手石垣が崩れた時はこれほどでもなかったと。
御城下では土蔵を始め破損したところは数限りなかった。
壁は落ち、鴨居は落ち、大木は折れたりしとても危険であった。
とりわけ西の方ほどひどかった。
濃洲カナマハリ(金廻)村一向宗皆受寺では客僧加州霊親という僧の法談が行われていた。
休憩中にこの地震で堂が崩れ、半死半生が30人程、1両日(1、2日)過ぎて死んだ者が46人。
その中には鵜取村西覚寺、高畑村長久寺もいたと。
その他多度のあたりでは総崩れだと。
(朱書注)
「伝馬町火の見の番人が見たところでは町々の屋根は波のうねるようで、瓦の落ちるものもあった。
恐ろしいことだと。
前夜、心宿(中子星)が星月を貫いたのはこの地震の前触れか。
この後1両日は銀河が見えなかったと。
小田井問屋町の井戸はこの地震で濁ってしまったので底を浚うと、大きな鮑が出てきた。
そこには南無阿弥陀仏の6文字と蓮如の2文字があったと噂されていた。
この頃、白鷺が空を舞ったと。
大地震、大雷があったので町々では御日待ち(夕方から日の出までの祈祷)をし、秋葉へ代参を立てる。
7月1日、あつた(熱田)参りは殊の外賑わう。
7日、熱田に御祈祷を仰せ付けられたと。」