名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

罰が当たったな

正徳3年1月22日。
本多作内が江戸へ召される。
2月7日に出発するはずである。

猪股小平七父子が2、3日前に名古屋へ到着する。
首尾がよくないと云々。

法花寺町常徳寺はとても我儘この上なく、円光東漸を猿猴唐犬と嘲り、勅授した号を遠慮することなく悪口を言い、聞いた人は眉をひそめた。
これは昨年冬の談義でのことであった。
今年の正月2日から高熱を出し、「熱い、熱い、逆さに吊り上げられても我慢できない。」とわめき叫ぶのが本堂まで聞こえた。
近頃、死期が迫る。

馬廻小頭朝倉喜兵衛が津田幽我のところへやって来て、谷助のことは25日過ぎに町奉行から申し来れば渡すようにと云々。
27日に遣わし、詰問の上牢に入れて寝かせた。
奥右衛門屋敷を絵図にし、下雪隠の踏み板の下とそのそばに金を埋め置いたと云々。
探したけれど見つからなかった。
雪隠土台下の石の下から出たねぢふくさ(捩袱紗)に金3分が入れてあった。
背戸(裏口)のはきだめ(ごみ捨て場)の中に銭900文があった。
門の乗物の中に脇差とふろしきが1つあった。
いずれも町奉行へ遣わすと云々。
谷助は古手売(古道具屋)を切り殺した以外にもあちこちで盗みに入り、大塩与市おとな(長)の衣服、若尾弥次右中間の綿入などを盗んでいた。
谷介は仲間のことでいろいろ出まかせを言った。
このため大津八郎兵衛の僕と大塩岡右衛門の僕を取り逃がさないようにと置いたけれど何事もなかった。
谷助は同僚円介に1両を盗み取られたと言ったので、呼び寄せて詰問すると嘘であったと云々。
目明し六右衛門が言うには、いつのことだったか奥右衛門のところで茶の間の女が衣服を井戸端に掛け置いたのを盗まれ、質に入れられた。
お前はその時に米を舂いていたではないかと云々。
その他のことも明解に話し、少しも相違はなかった。
奥深い話であった。