名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

鸚鵡籠中記

これはどなたの茶壷

宝永6年6月4日。茶壷が昨日清須に泊まる。

これはめでたい

宝永6年6月3日。今朝、林治兵衛・大津尉右衛門・古田勝蔵がやって来て、文左衛門の娘を水野権平の子久治郎の妻にと言ってくる。文左衛門夫婦とその両親は大いに喜んだ。親類に話をしてから返事をすると挨拶をした。2人には朝飯を出した。夕暮れ前、尉右…

殿が戻って来るとなると様々なことがある

宝永6年6月1日。公に暇をすすめられた(帰名)の祝儀として月番は年寄りのところへ出向くようにとの廻文があり、組の者はその組頭へ出向くようにと。昨日、一文字(早飛脚)がやって来る。この日、梅昌院(三代目綱誠側室)・八三郎様(継友)へ転居のこ…

宝永6年6月の地震です

宝永6年6月5日。卯(午前5時)過ぎ、大きな地鳴りがする。宝永6年6月6日。寅刻(午前3時)、大きな地鳴りがしてゆるゆる揺れる。その後しばらくしてまた地鳴りがする。宝永6年6月13日。辰(午前7時)前、地鳴りがして地震がある。宝永6年6月…

宝永6年6月の天気です

宝永6年6月2日。薄曇。宝永6年6月3日。曇。巳(午前9時)から雨が降り、時々止む。亥刻(午後9時)雷が2度鳴り、また雨が降る。宝永6年6月4日。曇。時々雨が降る。酉半(午後6時)に雷が2、3度轟いた後、湿った雨が降り、しばらくして止む。…

結構追放になっても戻って来てるんです

宝永6年5月29日。津守様(松平義行)が熱田に泊る。翌1日早朝に八三郎様(継友)、喜子之進様(松平通温)・万五郎様(宗春)が連れ立って熱田へ来られて対面する。津守様から八三郎様に明石縮2端・奥津鯛を供する。2人にも奥津鯛と絹縮2端ずつ供さ…

やっと外構工事

宝永6年5月26日。1昨日と今日の2日で沙(左)官が文左衛門の蔵を塗り終える。この日から壁の囲いのため大工がやって来る。

公の帰名の準備でしょうか

宝永6年5月22日。井伊掃部が鳴海に泊まる。翌日は清須で昼休み。巳刻(午前9時)、津守様(松平義行)が江戸を発つ。

あれ、この前葺かなかったですか

宝永6年5月20日。文左衛門は瓦を葺き直す。手伝が6人。

熱田も大騒ぎでしょう

宝永6年5月18日。二条・近衛の2人は別に饗応があるので江戸に留まり、他はこの日と明日熱田宮に泊まる。高野大納言・庭田大納言・梅小路中納言・両局押小路大外記、壬生左大史、告使山科民部大丞。嗣使青木兵衛尉・青木左兵衛尉の以上は18日に宮泊ま…

これがまた大変なんですね

宝永6年5月17日。公に国元へ戻る暇を出すとの内意がある。

遠回りだったんでしょうね

宝永6年5月14日。この日から西鉄門を通行できるようになる。以前のように石垣が出来上がったため。

喧嘩した2人の屋敷を処分

宝永6年5月12日。文左衛門の蔵のけぶせ(毛伏、毛羽をとること)を14日に行う。この日で大工仕事が終わる。2月21日からの合わせて60日。里見杢右衛門の屋敷を田辺源五左衛門が拝領する。順番ではなかったけれど山口に槍の稽古場を設けるためと云…

この2人は新番衆

宝永6年5月11日。大樹の茶壷が熱田に泊まる。志水甲斐・星野七右衛門などが出る。

大動員

宝永6年5月9日。五十人・三十人が江戸へ将軍宣下の饗応のため出発する。

将軍宣下と言えば一大事

宝永6年5月6日。書院番が20日の準備でこの日江戸へと将軍宣下の饗応のため下る。茶壷などや相応寺の法事には書院番がいないので、新番衆が出て勤める。

皆さん、怠ることなく勤めてると思いますか

宝永6年5月2日。文左衛門は近頃勤書を出す。頭の交代のため仲間は全員出す。勤の覚 朝日定右衛門。一 私は延宝9年酉2月、瑞竜院様に初めて御目見する。 御目見を14年。一 元禄7年戌12月、父同名善太夫は願いの通り隠居を仰せ付けられ、知行・家屋…

僕、なぜ帰ってしまった

宝永6年5月3日。文左衛門のところに瓦師1人がやって来て瓦を葺く。手伝と召使とあわせて5人がやって来る。杢兵衛と安右衛門が申刻(午後3時)からやって来たので酒と食事でもてなす。瓦の数は巻末に記す。未半(午後2時)頃、隼人正組200石里見杢…

宝永6年5月の地震です

宝永6年5月4日。卯(午前5時)過ぎ、地鳴りがする。宝永6年5月5日。卯(午前5時)過ぎ、地鳴りがする。宝永6年5月16日。寅刻(午前3時)、地鳴りがして地震がある。宝永6年5月17日。巳(午前9時)過ぎ、地震がある。丑刻(午前1時)、地…

宝永6年5月の天気です

宝永6年5月3日。快晴。宝永6年5月5日。快晴。西風が吹き、寒い。文左衛門は昼も袷を着る。宝永6年5月9日。夜、曇る。夜中から雨が降る。宝永6年5月10日。雨が降り、また風が吹く。未(午後1時)から雨が止み、晴れる。宝永6年5月11日。晴…

暗い話だ

宝永6年4月29日。久屋杉ノ町の角、平吉という米屋が自殺する。貧しさのため。亀尾天神の町の隼人正家来服部求馬中間と槍持ちが悉皆人を未刻(午後1時)過ぎに求馬宅で切り殺し、立ち退く。

これも理由不明か

宝永6年4月28日。夜、吉原助大夫の長屋で槍持ちを若党と中間で切り殺し、立ち退く。

弱い者にしか相手にできない腰抜け者

宝永6年4月27日。升屋町あかものや(ぬりもののこと)の召仕女が首を吊って死ぬ。妊娠したためか。この日、狼を撃ち、老中などへ持ってくる。近頃、町々を無法者が練り歩き、婦人・女の子を剥ぎ、鼻紙入・巾着などを無理やり奪っていた。これは小普請高…

文左衛門さん、帰ってきました

宝永6年4月26日。卯半(午前6時)、文左衛門は宿を出発する。昨夜から駕籠を雇い、桑名まで乗って200文かかる。先日桑名屋十蔵にこの日の船を頼んでおいたところ、熱田の船を留め置いてあった。十蔵のところには客があったので十蔵の近縁のところへ…

見事に胡散臭い

宝永4年4月23日。近頃、遊行上人の草履で諸病および不快のところを摩(ナズル)となんでも思い通りになると大流行する。家々で噂になり、竹腰帯刀まで取り寄せる。ほかはおして知るがごとし。

嘘つき

宝永6年4月21日。狼といっても野犬で、それも小さな1頭を撃ち殺して国奉行のところへ持ってくる。

文左衛門さんは伊勢参りにお出かけです

宝永6年4月20日。文左衛門は帰路上下を脱ぎ、羽織を着て修理殿へ出かける。暇をもらえてありがたいことである。明朝出発すると伝え、そこから源右へ暇を乞いに出かけて帰る。亥(午後11時)前、八郎右・瀬左とともに文左衛門は出発し、巾下を抜けて佐…

水野権平さんだけでは手が足りない

宝永6年4月18日。領内で狼を捕らえるため板取(美濃国郡上郡)より呼び寄せた猟人14人がこの日から出かける。

宝永6年4月17日。行赦が3人ある。早朝に舞楽がある。巳(午前9時)過ぎ、祭礼が始まり、未半(午後2時)に終わる。

これも詐欺

宝永6年4月16日。舞楽が延期となる。夜、法花寺町の町屋が焼失する。水野権平の手で昨日木津で撃ち殺した狼を、この日在国の老中から御用人まで吊って廻る。近頃、村で普請型の手代と称して御用のための石や竹があるか聞いて回り、判を取って食事などを…