名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

そうは言われても10日ほどで娘を離別された親の気持ちもあるだろうし

宝永3年12月8日。
行赦が2人ある。
夜、常明寺墓所で竹腰民部賄人が自殺する。
ここは旦那寺だと。
借金が原因と云々。
神谷八郎左衛門が先月30日に婚礼を行った妻を離別する。
先だって仲人森十郎兵衛・市村伝兵衛が平太夫のところへ出かけ、離縁のことを話していた。
すると駕物が来たが平太夫は台所へもあげずに追い返し、こちらから迎えをやって呼び戻す、かつ仲人には娘に落度はないとの手形を出すようにと云々。
十郎兵衛は急いで八郎左衛門のところへ出かけた。
そうこうするうちに平太夫の召仕がやって来て、娘を連れ帰った。
太夫の子両人も途中まで迎えに出た。
太夫が言うには、皆から手形が取れないのであればこちらから出向いて取ると。
森は迷惑し、まずは承知して八郎左衛門のところへ出かけた。
1日、2日して仲人は平太夫のところへ行ってこう言った。
手形は必要ない。
我々へ手紙を寄こしており、そこには誓文があって娘に落度はないと。
これで十分と言うのでその通りにした。
太夫は人々に向かって娘を取り返したと言いふらした。
太夫の行いも全部良くなかった。
三つ目の振舞(式後3日目の祝宴)にも申半(午後4時)頃に八郎左衛門のところに出かけていた。
娘の道具などもはなはだ良いものではなかった。