元禄16年7月4日。
隼人正が少し前から瘧(熱病)にかかり、この日病状が進み、2度気を失う。
未(午後1時)過ぎ、本多与兵衛・嶋松右衛門が側にいるのを見られる。
暇乞いに剣術を見ることを所望され、見物する。
近頃、福嶋八郎右衛門が早駆けで尾張にやって来たのは因幡の妻を離別させるための使いであった。
後払いで買った借金は数知れず。
隼人正はこれを聞いて気を病み、諌めようと手紙を自筆で細々書いているうちに気分が悪くなってしまった。
因幡の行いの悪さはどうしようもなく、酒と女の2つに溺れ、吉原に通うことも人目を憚らなかった。
去年も大金を出して京から女を呼び寄せ、江戸に置いていた。
家老などが諌めたが聞き入れなかった。
去年も家老の伴三郎兵衛の耳に入って諌めたので隼人正は呼び返され、隠居を申し付けられた。
因州は常々畳の上では死なない、女の上で死ぬと語っていたと云々。
また隼人正に酒の決まりを立てていた。
酒宴での決まりは、こびへつらう者たちが盃を挙げて、たとえば七平様あがりませ、三七様あがりませと言うと喜んで酒を飲み、因幡と言うと飲まないということであった。
これは誓いから逃れるためであった。
隼人正の持病は去年から固まった血が便と共に下していた。
とても粘っており、引き伸ばすと数尺にもなり、放っておくとたちまち縮んで元のようになった。
去る辰の年、江戸破損の修理に際して、大工・日用などを先年の価格ではできなかったので作事奉行杉原源蔵がなだめすかして何とかしていた。
このため大工棟梁は褒美金として金1両を得ていた。
この後、作料の増額を願い出たけれど源蔵は取り合わず、尾張とやって来ていた。
尾張へもたびたび状を送り、どうにもならないなら訴状を出すと言ったけれど取り合わなかった。
隼人正が尾張へ向かう際、品川で江戸の町人などが駕籠の中に訴状を入れた。
元は家老なども話し合ったことであったが、罪を源蔵1人にかぶせて閉門させ、隠居させた。
江戸の町人には作料を増額した。