名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

利兵衛がもっと毅然とした態度を取っていればよかったのに

元禄16年3月8日。
夕暮れ頃、紙屋利兵衛が14、5になる僕を用事で東の方へ遣わした。
七間町通り、杉ノ町と桜之町の間で町人が多く集まり、大人も子どもも群れていた。
この者たちがこの僕を捕らえて散々に叩いていたぶった。
僕はかろうじて帰って伏せってしまった。
そのため他の小僧と六尺(下僕)1人を遣わすと、又人が集まって来て小僧をいたぶった。
六尺はこのいたぶった男を肩に乗せ、馳走所の辺りまで連れて来たが、2、30人が追いかけてきて六尺とともに叩いて帰って行った。
利兵衛向いの町奉行同心坂武兵衛の僕がこれを見ていた。
このことを武兵衛に告げると、すぐに利兵衛を呼んで尋ねた。
利兵衛は確かに叩かれたけれどどちらが悪いかはわからないので穏便に済ませたいと言った。
それでその通りにした。
しかし今月13日朝5ツ半(午前9時)頃、奉行所に叩かれた僕を連れて来た。
利兵衛も来るようにとのことで奉行所へやって来た。
七間町の町代両人は叩いた者を連れて来るようにと。
巳之刻(午前9時)になってもやって来ないので、催促の使いを出して20人余りを連れて来た。
先ず時間に遅れるのは上を軽んじていると叱られた。
この中で六尺が見た者があるかと尋ねるとたくさんいたと。
特に嶋の着物を着た角前髪の者は自分が肩に背負い御馳走所まで連れてきたのでよく知っていると言った。
すぐに角前髪を呼びつけ、役人等がこの者を問い詰めるとそのようなことはないと言ったので、屏風の陰から六尺を呼び出して面と向かって言い負かすと酒に酔っていて覚えていないと云々。
5人は篭に入り、町代は叱られた。
4、5日して利兵衛は七間町へ行き、町代と共に5人を許すように願い出て許された。
その上で七間町の町代両人の戸を縛った。
その中で弥市は10日して許された。
与右衛門は久しくして許された。
この事件の前、夜に女童が通るといたぶる、もちで綿帽子を取って踏みつけるなどの事件が七間町で起こっていた。
これもこの悪党たちの仕業であった。