名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

いつの世も人付き合いは難しい

沢井楓軒は昔からそれとなく人の気を引くのが上手であった。
人にこびることを楓軒のようだと言っていた。
初めは竹腰信濃守の隣であることを吹聴し、毎年新茶を必ず振る舞っていた。
また夜な夜な殺生などと称して贈物をしていた。
これにより養子与三右衛門は700石を加増されて1000石となり、用人となった。
これは信濃守が上座で取り成したため。
このため沢井父子ともにますます昵懇となったが、側同心頭となってから信州に相手にされなくなった。
これは与三右が泰公の覚めでたく側同心頭を仰せ付けられたが、信州ははなはだ泰公とそりが合わなかった。
このため、殿の手前信州とは疎遠になっていた。
信州には大いに含むところがあった。
泰公逝去の後、信州には権勢があり、三左は急に隠居となった。
日用頭甚之助は永らく三左のところに出入りしていたが、簡略の吟味があり辞めさせようとしたなどとの口ぶり。
そのため表向き三左は隠居したと。