名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

これがかの有名な船頭重吉さん

文政4年2月15日。
この日から5月までの100日間、笠寺観音で開帳が行われ、大賑わいとなる。
見世物も行われる。
また5月3日には芝居も始まるが、程なくして中止される。
また、半田村の重吉が漂流した異国の品を見せた帳の写しをここの記す。
魯西亜国衣類器物披露の申来書(届出書)
知多郡半田村船頭重吉と同船の者14人は文化10酉年に伊豆の沖で暴風に遭い、17ケ月の間南東の大洋を漂い、飢えや渇きに苦しみ段々と死んでいった。
重吉と乙吉だけは命助かり、文化12亥の年2月に日本からおよそ2500から2600里(1里は約4キロ)も離れた洋上で諳厄亜(イギリス)の都ロンドンやらの船に助けられ、そこからは日本から3000里ほど東の亜墨利加(アメリカ)のあたりを廻り、魯西亜(ロシア)の出島カンチヤツカというところに10ケ月ほどいた。
その時に貰った異国の衣類、器物を広く人に知らせようと思う。
その理由は14人の者たちが2年あまり船中で苦楽を共にし、長く雨も降らなかったのでのども渇き、飯米はとっくに尽きてしまったので積荷の豆を食べ、日夜集まっては故郷の家族のことを語り合い、もし1人でも命が助かって故郷へ帰る者があれば、どこであれ死んだ者たちの菩提仏事を営むと堅く約束した。
しかし、船中で漂流にまかせ、飢えや渇きを堪え忍ぶだけで、一返(編)の経文も聞かずに死んでいった者たちは成仏を得ることもできなかったはずである。
哀れにも死んでいった12人の者のために石碑を建て、無縁の人たちまでにも一辺の回向が得られるのであれば、成仏の縁にもなると思われる。
船中で日夜念じた観世音の功徳で2人は不思議と命が助かったので、この度当山観世音開帳の縁で、異国で貰って来た品々を広く披露し、わずかなの助けを得て石牌の費用に充てようと考えている。
見物する人はこれを私利私欲のためと思わないでほしい。
自分には財力がないのでやむを得ず異国の器物を披露して、世の人の合力を得ようと思うだけである。
(器物一覧略)